さそり座
しずかに暮らすということ
故郷喪失者の故郷観
今週のさそり座は、種田山頭火の「帰家穏坐」のごとし。あるいは、こころの据わりをただしていくような星回り。
普通には「帰家穏坐」といえば、わが家に帰ってそこに大悟の安息を見出すという意味で使われる禅語なのですが、俳人の種田山頭火はこれをさらに徹底して、自分の故郷はもちろんのこと、わが家さえも捨てたところにこそ「ほんとうの故郷」がある考えました。
自性を徹見して本地の風光に帰入する、この境地を禅門では「帰家穏坐」と形容する。ここまで到達しなければ、ほんとうの故郷、ほんとうの人間、ほんとうの自分は見出せない。
自分自身にたちかえる、ここから新しい第一歩を踏み出さなければならない。そして歩み続けなければならない(『山頭火随筆集』)
これは「故郷」というごく短いエッセイの中の一節なのですが、ここで彼は「近代人は故郷を失いつつある」という認識に立って、「ほんとうの故郷」は「心の故郷」にあるという仕方で、いわば故郷を昇華したのです。
22日夜にさそり座から数えて「心の基盤」を意味する4番目のみずがめ座で迎える満月から始まっていく今週のあなたもまた、自分が立ち返るべきホームの再設定ということがテーマとなっていきそうです。
隠遁の真髄
『風俗文選』の「西行上人画讃」に松尾芭蕉による「捨てはてて身は無きものと思へども 雪の降る日は寒くこそあれ、花の降る日は浮かれこそすれ」という言葉があり、これは芭蕉が憧れの人である西行に見た、隠遁の真髄に触れているもののように思います。
「捨てはてて身は無きものと思」うとは、人間らしい在り様をも捨ててしまったまったくの孤独の境地であり、離脱の極みとも言えますが、その裸身裸形の肌で雪の寒さ、花の美しさなど、大自然の与えてくれているものを素直に感じとり、そこから何ごとかを得ようとすること。それが隠遁ということの極限的な姿であると芭蕉は考えていたのでしょう。
これは能楽で、舞台上の恋愛や修羅の悲喜こもごもが終わったあとに、諸国を旅する隠遁の僧が立ち上がって、「今まで鬨の声と聞いたのは松風や波の音であった」と語る場面にもどこか通じています。
今週のさそり座もまた、これまでにない新たな一面が自分の中から産声をあげていく瞬間を経験していくことができるかも知れません。
さそり座の今週のキーワード
裸身裸形の肌