さそり座
再構築とそのためのベース
自分が癒される場所はどこか?
今週のさそり座は、高野山そのものをマンダラに見立てた空海のごとし。あるいは、心身ともに本当に深いところから癒していく上で、必要不可欠なものを探していこうとするような星回り。
マンダラと言えば9世紀に空海が唐から持ち帰った両界曼荼羅が知られていますが、曼荼羅は宗教的真理を視覚的に描いた美術作品などではなく、あくまで修行のために欠かせない装置でありアイテムでありました。
そして、日本人のマンダラ理解はインド人とも中国人とも異なる独特なもので、人の手で描かれた画像という次元を超え、現実の自然そのものをマンダラに見立てるという発想を持っていた訳ですが、これは今でいうプロジェクションマッピングであり、その原点もやはり空海でした。『性霊集』巻一の「山に遊んで仙を慕う詩」には、こう書かれています。
「汚れなき宝の楼閣、金剛法界宮(ほっかいきゅう)は、堅固なダイアモンドの障壁でかこまれています。配下の仏菩薩や神々は雨のごとく数多ならび、その中央に大日如来が坐しています。」
彼の眼には高野の地をぐるっとめぐる緑うるわしい山々が、マンダラに寄りつどう、たくさんの仏や菩薩、神々のすがたとして映っていた訳ですが、それは彼だけの特殊な経験ではありませんでした。彼以降、吉野や熊野、月山など、日本各地の自然がつぎつぎにマンダラに見なされていったのです。
7月28日にさそり座から数えて「基盤や礎(いしずえ)」を意味する4番目のみずがめ座に逆行中の木星が戻っていく今週のあなたもまた、単に自然に親しむという次元を超えて、より深いところでの癒し体験を感覚的に探究してみるといいでしょう。
私を殺し、私を創る
たとえば批評家の安藤礼二は、江戸川乱歩は作品を書くことを通じて「女」になろうとしていたし、そのために「私」を徹底的に分断して、自らの想像力のみを駆使してまったく新しい理想の「女」として再構築していったのではないか、という指摘をしています。
「女になること。その場合の女とは、肉体的な現実をもった女ではない。乱歩の「女」とは、生物学的な「差異」でも、制度的な「差異」でもない。逆にその「女」はさまざまな「差異」を生み出す地平、絶対的な「官能性」とでも名づけるほかない領域に存在する。それは森羅万象のすべてを官能として受容する純粋な感覚世界の新たな想像であり、その感覚の全面的な解放である。」(安藤礼二、「鏡を通り抜けて 江戸川乱歩『陰獣』論」)
乱歩ほど徹底的に実行できるかはさておき、今週のさそり座にも、「私」を再構築することへの鬼気迫る情熱のようなものを感じてなりません。自分が制度や生物学的な分類を超えたところで、一体何を望んでいるのか。今はその夢想の根底へと一歩ずつ、しかし着実に歩を進めていくことです。
さそり座の今週のキーワード
両性具有性