
いて座
熱燗と身もだえ
「滅び」と「歌」の共鳴構造
今週のいて座は、「熱燗や国滅ぶとき歌おこる」(藤井元基)という句のごとし。あるいは、悲壮な冷気ではなく、静かな人間肯定の熱をこそ、ふつふつと湧き上がらせていくような星回り。
どこか人の体温と文化の余熱が離れない一句です。「国滅ぶとき」という措辞には、政治的な崩壊や戦乱という現実を越えて、文化や共同体の根そのものが絶たれる際の断末魔のようなものが感じられますが、続けて「歌おこる」と詠まれることで、同時に死者の魂を鎮め生者をつなぐという歌の根源的な役割が呼び覚まされるようでもあります。
例えば、日本文学の源流とも言える『万葉集』には個人の恋や自然讃歌だけでなく、失われたものを言葉で弔うという祈りの構造がありました。それは柿本人麻呂が壬申の乱後の都の荒廃を目の当たりにしていく中で和歌という形式を確立させ、藤原定家、西行、芭蕉、近代の戦中派の詩人たちへと受け継がれていったこととも大きく関係しているでしょう。
この句にも、そうした「喪失が歌を生む」という古層の感覚が息づいています。繁栄よりも滅びの中でこそ、言葉は強い光を宿していく。なぜなら、失うことを通してしか、人は世界の全体を感じ取ることができないから。
ただし家を失くし、国が滅びても、人は火を絶やさず、湯を沸かし、酒を温める。それは、滅びのなかでもなお現世に留まる人間の矛盾的な生の温度を象徴するような行為であり、人が人であることを確かめる決定的な儀式なのだとも言えるのではないでしょうか。
どうも掲句の作者の意図というのも、「歌」が喉の奥から自然と湧き上がってくるのは、いつだって体温を奪われていく世界の中で唯一残された「熱燗」を酌み交わすような夜があってこそなのだ、というところにあるように思われてなりません。
10月30日にいて座から数えて「言挙げ」を意味する3番目のみずがめ座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、小さな湯気の立ちのぼりの中で、喪失を歌に変える古層の感覚を身をもって思い出していきたいところです。
身もだえの話
山折哲雄の『「歌」の精神史』に浪曲師の春野百合子さんの言葉が紹介されていました。浪曲は戦後になって、伝統芸能のなかで「軍事浪曲」だの「愛国浪曲」だのといったいわれなき非難を浴び、転落の道をたどり、特にインテリ層から「浪花節的」といわれ差別されてきましたが、春野さんはそうした世間の風潮に抗するようにこう言っていたのだそう。
人は浪曲を古いというけれども、じつは、これは人間の「身もだえの話」なのです。いつの時代にも変わることのない話なんです
ここで言う「身もだえ」とは、狂おしいような思いであったり、人情というものの時に常識破りの深さを指すものだと思いますが、それを歌のリズムにのせて魂の叫びとしていった例として、西行の次のような歌が挙げられます。
うかれいづる心は身にもかなはねばいかなりとてもいかにかはせむ(『山家集』)
この「うかれいづる心」とは、自分自身のものでありながら自身のもとから乖離し、外へ外へと駆り立てられていく激しい心性のこと。
おそらく西行は上手に詠もうとか、それで名誉を得ようといったことは二の次三の次だったはず。ただそうせずにはいられなかったことを、苦しみながらも鍛え上げ、自身の仕事であり、使命としていった訳で、「身もだえ」ということを軸にすれば、文化的な和歌も通俗的とされる浪曲も、固く結びついているように思います。
今週のいて座もまた、それほどの「身もだえ」こそが自身のやるべきことを告げ知らせる所作なのだ、ということを改めて実感していくことになるでしょう。
今週のキーワード
火を絶やさず、湯を沸かし、酒を温めること。







