
いて座
孤独の輪郭をなぞるように

不可能性のその先で
今週のいて座は、「蝸牛交(つる)めば肉の食ひ入るや」(永田耕衣)という句のごとし。あるいは、生きること、交わること、個であることそれ自体に潜む根源的なかなしさが引き出されていくような星回り。
一見すると自然界の一場面、「蝸牛(かたつむり)」の交尾の様子を観察した記録句のように映りますが、よくよく作者の言葉の選び方に留意すると、ここには自然の摂理を人間のかなしみへと昇華させる、作者の強い内的共鳴が込められていることに気付きます。
そもそも「蝸牛」はゆっくりと動く孤独な生き物であり、その佇まいにはどこか哀しさや寂しさが宿っています。そんな静的な存在が他の個体と交接する、すなわち動的な営みに入るというのは、それ自体で強烈な対比を生み出します。が、「交尾(つる)む」というのはそれだけでなく、同時に個体がもっとも脆く、もっとも無防備になっていく瞬間でもある。作者はその刹那に、蝸牛自身の「かなしみ」だけでなく、人間としての「生きるとはそういうことだ」という実感を感じとったはず。
「肉の食ひ入る」というたぶんに生理的で、相手に喰われるかのような言い回しには、私たちが胸の奥に抱える恐れや痛みを想起させます。それは、愛すること、交わることが、どこか「自己が失われること」と表裏一体だから。人は孤独を超えるために他者と交わろうとしますが、どれほど深く交わっても、完全にひとつにはなりえないという「不可能性」を、私たちはどこかで知っている。そのくせ、「肉の食ひ入る」ほどに相手を求めてしまう。
つまり、この句の根底にあるのは、交わることの切実さと、その背後にはる取り返しのつかない孤独なのです。作者は自然の交尾にそうした人間の宿命をかさね、結ばれようとすればするほど、孤の実感が深まるという逆説的なかなしみ詠んでいるのでしょう。
6月11日に「拡大拡張」を司る木星がいて座から数えて「つながり」を意味する8番目のかに座に移っていく今週のあなたもまた、「孤と交」「快と痛」など生きる上で避けては通れない根源的なジレンマがますます増幅されていく流れに入っていくでしょう。
自分自身の孤独の確立
まだ若かった頃に理想の共同体を夢みた仲間たちとのありし日の情景を描いた須賀敦子のエッセイ集『コルシア書店の仲間たち』のあとがきには、次のような一節があります。
それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣あわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。/若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。
コルシア書店の支配人であった夫のペッピーノと共に、須賀は書店の文化運動に熱中し、しかしその運動の内容自体にはあまり触れずに、そこで出会った人びとの肖像をエッセイにして描いていきました。
その1人ひとりの肖像が、どこか生き生きとして読者の胸に迫ってくるのは、仲間たちの「究極においては生きなければならない孤独」というものを、須賀がきちんと理解し、高い解像度で捉えていたからでしょう。
今週のいて座もまた、失うことではじめてわかることがあるのだということを踏まえた上で、人知れず確立された孤独の輪郭をなぞっていくことがテーマとなっていくはず。
いて座の今週のキーワード
交めば肉の食ひ入るや





