いて座
うめき声とともに
只此一筋に繋る
今週のいて座は、身体の中にある「物」のごとし。あるいは、理性的な頭とは別個に存在する、自分の中のどうしようもない業のようなものを自覚していこうとするような星回り。
生涯を数多の旅に生きた江戸時代の俳聖・松尾芭蕉の遺稿から旅の記をとりあげ、死後に刊行された『笈の小文』は、その冒頭から読む者に切々と訴えかけてくる独特の迫力があります。
百骸九竅(ひゃくがいきゅうきょう)の中に物あり。かりに名付て風羅坊(ふうらぼう)といふ。誠にうすものゝかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好むこと久し。終に生涯のはかりごとゝなす。
最初の「百骸九竅」とは多くの骨と穴のあいた肉体のこと、「風羅坊」は芭蕉の別号で傷つきやすい心の意、また「かれ」は芭蕉自身のこと、「狂句」とは俳句のことを指します。すなわち、身の内に一つの抑えがたいものがあって、それがやがて生涯にわたり取り組むこととなったと述べているのですが、この後が凄いのです。
ある時は倦んで放擲(ほうてき)せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたん事をほこり、是非胸中にたゝかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立む事をねがへども、これが為にさへられ、しばらく学んで愚をさとらん事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして只此一筋に繋る。
芭蕉ははじめから俳諧師を目指していた訳ではなく、「しばらく身を立む事をねがへども」とあるように、侍として出世することを願い、また、仏道を学んで精神の充足を求めたが結局は俳諧が妨げになり、どちらにもなり切れなかったのです。
しかも当時の俳諧はまだ新興のマイナージャンルに過ぎず、少なくとも気骨ある青年が生涯の仕事として志すようなものではありませんでした。が、芭蕉はこの旅を通してそんな俳諧を捨てきれないことをやっと自覚し、俳諧に選ばれたのだという結論に達したのです。
ただそれも「無能無芸にして」とあるように、決して過大な自我肥大によるものというより、俳諧という何だかよく分からないものに憑りつかれ、しかも頼みは自分の手だけであるといううめき声とともに、やっとの思いでしぼり出したものでした。
1月7日にいて座から数えて「心血を注ぐべきもの」を意味する5番目のおひつじ座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、芭蕉ほどいのちがけの旅をすることは難しくとも、それくらいギリギリのところで「徒手空拳の戦い」を展開していきたいところです。
甘んずる事ができないがために
ここで思い出されるのは、「底の抜けた柄杓で水を呑まうとした」という尾崎放哉の一句です。一般的には、エリート街道から恋に破れたことをきっかけにすべてを捨てて俳句三昧へと入ったとされる放哉ですが、彼の俳人としての育ての親である荻原井泉水の言葉を以下引用してみましょう。
失恋だけで放哉がああなったとは思えませんな。あとではちゃんと妻を迎えていたのだから――それよりも最大の動機はむしろ会社勤務に性格上堪えられなかったということが――ついに俳句一筋に縋って、あとの全部を放擲して無一物の生活に飛び込ませた――もし彼が会社員生活に抵抗を感せず甘んずる事が出来たらああいう最後は遂げずにすんだはずでしょう(吉屋信子『鬼火/底の抜けた柄杓』)
とはいえ、放哉は今では自由律俳句の代表者として知られています。今週のいて座もまた、大抵の人が普通にできるはずのことが普通にはできない、そうはあれなかった悲しみを、ただ放っておくかわりに、何らかの言葉にしてみるといいかも知れません。
いて座今週のキーワード
底の抜けた柄杓