いて座
群像劇化
自虐的笑いの昇華
今週のいて座は、『高慢と偏見』における作者のまなざしのごとし。あるいは、誰に向けるでもなく「全てがさ中なのだから滑稽などありえない」と言い放っていくような星回り。
優れた文学作品を読む楽しみは、素晴らしく立派で非の打ち所のない人物を知ることより、むしろただ生きているだけで、滑稽さや失敗をどうしようもなく抱え込んでしまうものだということを痛感することのうちにあるように思います。
例えば、18世紀イギリスの古典的名作であるオースティンの『高慢と偏見』の登場人物は、誰一人として完璧な人物がいません。男も女も総じてあるときは善人だったりあるときは悪人だったりして、間違えたり、妙なプライドを持っていたり、暴走したりする。作者オースティンのまなざしは登場人物全員を平等に「恥ずかしい人」として扱うのです。
母親の過剰な心配性も、父親の辛辣さや無責任さも、若い娘にやりこめられるお金持ちだがコミュ障の青年も、激しい思い込みでやらかす友人も、作者が片っ端から笑い飛ばしていくことで、その存在が根本のところで許され、救われていく。
われわれは何のため生きているのかね? 隣人に笑われたり、逆に彼らを笑ったり、それが人生じゃないのかね?
おそらくこれは登場人物の口を借りた、作者自身の地声でしょう。そして、もし今あなたが人に笑われないように、恥をかかないように、可能な限り世の中の「普通」から外れないように生きているのなら、今こそこうしたセリフを声に出して読んでみるといいかも知れません。
10月17日にいて座から「自己愛」を意味する5番目のおひつじ座で十三夜の満月(リリース)を迎えていく今週のあなたもまた、理想ばかり追うのでも、かと言って現実から目を逸らすのでもなく、自分の無様さや格好悪さをまなざしつつも「たはは」と笑って許してくれるような視点をこそ取り入れていきたいところです。
「だけ」と「も」の違い
例えば、自分自身の身に起きた体験や出来事を題材にする私小説家はナルシストと勘違いされがちですが、ナルシストというのは「誰かを愛しているふりをしながら、本当に愛しているのは自分だけであり、しかもその事実に自分では気付いていない人」であり、実際にそういう人に小説を書かせても、作品として不自然過ぎて小説にはなりませんし、もし強引につくるとしても、不条理コントのようなものにしかならないのではないでしょうか。
小説には主人公を含む幾人かの登場人物が必ずいて、それらがまるで実在しているかのように生きた展開をしていかなければなりません。つまり、執筆に多少なりと本人の自己愛が介在していたとしても、愛しているのが自分「だけ」でなく、自分「も」になっていかなければ(私)小説は成立しないわけです。
そして、そういう「も」での繋がりは、島同士をコンクリートでガチガチに固めて結び橋のようではすぐに破綻してしまいますから、どうしても島を行き来する連絡船の航路のように、ゆるやかなものでなければならない。
その意味で、今週のいて座もまた、自身の人生をひとつの私小説だとして、主人公である自分と登場人物とのあいだを、ゆるやかな自己愛で結んでいけるかどうかがテーマになっていくのだという風にも言えるかもしれません。
いて座の今週のキーワード
航路で結ばれた島々全体を一つのアイデンティティーの下で愛していくこと