いて座
波だから、潮だから
種が消滅の危機に瀕するたび先覚者は現れる
今週のいて座は、ダーウィニズムに対する今西進化論のごとし。あるいは、種の主体的な変異をリードした先覚者たちにみずからを連ねていこうとするような星回り。
生態学者・今西錦司は『生物の世界』のなかで、ダーウィンの自然淘汰の考えを全面的に否定して「種は変わるべくして変わる」と主張し、「種自身が変わっていく場合には、早く変異をとげた個体はいわば先覚者であり、要するに早熟であったというだけで、遅かれ早かれ他の個体も変異するのである」と述べていました。そしてさらに、「形態的・機能的ないしは体制的・行動的に同じようにつくられた同種の個体は、変わらねばならないときがきたら、また同じように変わるのでなければならない」とし、それゆえにこそ「種の起源は種自身になければならない」と結論づけました。
こうした今西進化論は、あきらかに生命としての実感ないし「生きること」に定位した思想であり、これが対象としての生物や生命物質に定位したダーウィニズムと相容れなかったのも当然のことだったのでしょう。
両者はそれぞれ問題にしている「事実」の大きさが違うのであって、たとえば今西の「生物が生きるということは働くということであり、作られたものが作るものを作っていくということである」とか、「こうして生物の世界は全体としてどこまでも一つのものでありながら、それはまたつねにそれぞれの生物を中心とした世界の統合体でもあった」といった言葉からは、今西が「客観的な観察」によって生命活動を傍観者的に分析しようとしているのではなく、あくまで生命それ自身の内側から、ひとりの実践者として生命活動を考えようとしていることが伺えます。
その意味で、現代社会で欲望に憑かれ、突き動かされることで、人生の新たな扉を開けていった者たちというのは、いわば種の主体的な変異の先覚者にならんとしているのであって、それは種が消滅の危機に瀕した際に環境との境界面にのばした触手のようなものなのだとも考えられるのではないでしょうか。
7月6日にいて座から数えて「否応なく巻き込まれること」を意味する8番目のかに座で新月(種まき)を迎えていく今週のあなたもまた、自分を導いてくれた「先覚者」たちを思い起こしつつ、そのバトンをいかに繋いでいくかが改めて問われていきそうです。
永瀬清子の「窓から外を見ている女は」
考えてみれば、日本という国が肌感を伴なって資本主義になってきたのは、やっと戦後のことでした。産業構造が変わり、会社勤めをする人が増え、農家の嫁以外の「職業」につく女性が増えていったのです。
自分たちは戦乱をくぐり、あるいは飢餓や苦境を生き延びて、多様な職業につくようになって、すこしは地位が向上しただろうか。そんな意識が共有され始めた1970年代中頃に、女性の手によって編まれた詩に永瀬清子の『蝶のめいてい』という作品がありました。
窓から外をみている女は、その窓をぬけ出なくてはならない。日のあたる方へと、自由の方へと。
そして又その部屋へかえらなければならない。なぜなら女は波だから、潮だから。人間の作っている窓はそのたびに消えなければならない。(「窓から外を見ている女は」)
ここでいう「窓」とは、ものごとの視野を狭めて規定する価値観の“枠”であり、「ここから先はお前の領域ではない」と社会がこさえて用意してくる“柵”でもあったのでしょう。けれど、女性はほんらい、男性よりも自然に近く、容易に“枠”にも“柵”にもおさまらない存在であり、むしろそれらを消し去り、押し流すほどの力を秘めているもの。
今週のいて座もまた、これまでの自分を振り返りつつ、そんな風に自分に秘められた力がどれほどのものであるのかを、改めて自覚していくことになるはず。
いて座の今週のキーワード
自分もまたひとりの先覚者としてあるのだということ