いて座
レッツじたばた
使い古された「時」の使用に抗う
今週のいて座は、神さまの意思によって選ばれた特別な木を切り出すよう。あるいは、本当の意味での「新しさ」に触れていこうとするような星回り。
現代社会がたんに物を欲望する社会を通り越し、物のもつ記号性を消費する社会も通り越して、欲望そのものを欲望し、欲望そのものの生産を目がける社会に移行した、という話はこれまでも各所で繰り返しされてきました。
つまり、必要だから買うのでも、カッコいいから買うのでもなく、定期的に買い替えたり、なんとなく買った方がいい気がするから買う。そこでは過去の自分との縁を切断し、たえず自分自身を更新することだけが大切なことである、という感覚が日常化しており、それこそが消費社会の行き着いた果て、その核心であると。ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンが1938年から翌年にかけて書いた『セントラルパーク』において以下のように言及していたのも、そういうことの裏返しでしょう。
今日の人間のあり方からすれば、根本的に新しさはひとつしかない。それはつねに同じ新しさである。すなわち、死。(『ベンヤミン・コレクションⅠ 近代の意味』)
恋愛であれ仕事であれ、近代社会ではどんな新しいものもいずれ廃れるものとして、あるいは、いつかどこかで見たことのある光景として出合われる。そこでは、ベンヤミンの言うように、絶対に取り返しのきかないことを除いては本当に新しいものは何もなくなっていくわけです。しかし、果たして本当にそうでしょうか?
たとえば、定年だとか賞味期限だとか、そうした相対的で限定的な「時」を生きることがない者にとっては、少なくともそういう「時」以外の「時」に触れている者にとっては、やはり相対的で限定的な新しさには意味がありません。
そこでは新しさを不可能にするもの、すなわち永遠(に感じられるもの)、大きな生命の循環(サイクル)、あるいは、そうしたものによって地上にもたらされるすがすがしい風といったものだけが、本当の意味で新しいと言えるのではないでしょうか(語源的に「新」という漢字は神さまの意思によって選ばれた特別な木を新しく切り出すことの意)。
8月2日にいて座から数えて「変化の推進」を意味する3番目のみずがめ座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、使い古された「時」の使用に反旗を翻していきたいところです。
「じたばた」すること
「じたばた」という言葉は、何かしらネガティブな状態から逃れようと慌てたり、焦ったり、取り乱したりして、結果的に見苦しい様相を呈する際に使われ、ほとんどの場合「じたばたするべきはでない」などと否定形で用いられます。
しかし黙ってじっと耐え抜けば、思いきった転身を経ずともいつか事態は好転していくはず、といった日本人好みの信念は、変革期の歴史を振り返ればしばしば大惨事を招いてきた真犯人でもあり、そうした批判は今の時代状況においてますます有効になってきているように思います。
特に日本社会のジェンダー格差の深刻さに関して、誰もが「どうしてこうなったのか?」という解けない問いを突きつけられているかのようなものでしょう。しかし、そうした“解けない問い”に囚われて立ち止まってしまったり、じたばたするのは恥ずかしいと自縄自縛に陥っていくのではなく、むしろ解けないながらも実践しつづけ、そこで現われてきてしまう新局面を積極的に見ていこうとすることこそが、「時」以外の「時」に触れていくための唯一の道なのではないでしょうか。
その意味で、今週のいて座もまた、スマートな仮面を脱ぎ捨て、今こそ思いきり泥臭くじたばたしていきたいところです。
いて座の今週のキーワード
見苦しさを超えていけ