いて座
肉の食い入るや
人間主義の向こう側
今週のいて座は、『蝸牛つるめば肉の食ひ入るや』(永田耕衣)という句のごとし。あるいは、人間間の不気味な現実に突き当たっていこうとするような星回り。
昔から、なめくじは人に嫌がられるのに、蝸牛(かたつむり)の方はやたらと愛されて、「でんでんむしむしかたつむり~♪」といった歌とともに、子どもらのいい遊び相手にもなってきました。
しかし、掲句の「蝸牛」はそんな可愛らしく牧歌的な雰囲気とは一線を画しています。生殖の交わりをしているその光景は、まるで「肉と肉とが食い入る」かのようで、ぬるぬるした体表の質感とあいまって不気味でさえあります。
あるいは、作者の目の前で実際にそうした光景が広がっているのではなく、作者が頭の中で「蝸牛が交わるとどうなるのだろう」と想像しているのかも知れません。そうであるならなおのこと、作者の想像は恐ろしい。つまり、作者はここで蝸牛のかなしみを詠むと同時に、人間のかなしみをも詠っているわけです。
同様に、6月18日にいて座から数えて「対人関係」を意味する7番目のふたご座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、人と人とがつるんでいく上で必ず伴ってくるかなしみや残酷さに直面していくことになるかも知れません。
異類とつるむ
民俗学者の赤坂憲雄の『性食考』によれば、馬と娘が結ばれる「おしら様」や「鶴女房」など、昔から日本に伝わってきた異類婚姻譚というのは、西洋の昔話よりもエスキモーやパプアニューギニアなどの自然民族の民話に近く、「異類」という言葉のニュアンスほど人間と動物との区別が徹底していないのだそうです。
エスキモーの古老の言葉を借りて言うなら、「生き物はみな人間の姿と形になることができる」のであり、そうした世界では「(人間は)自然のなかの一部であり、動物の一種である」という人間観が通底しており、その意味で赤坂は「異類婚姻譚」とはやはり、すでに失われた人間と動物たちとの「原初の連帯」を回復するための、ささやかな文化的仕掛けだったのかもしれない」とまで述べています。
ここでふと思い出されるのが、『ドラえもん』のテレビアニメが放映開始されたのが1973年であったという事実です。考えてみれば「未来からきた猫型ロボット」であるはずのドラえもんという存在を、アニメ内の誰もがごく当たり前のように受け入れており、さらに言えば、そうした内容のアニメが国民的な人気を博して、50年後の現代においても多くの日本人がドラえもんに親しみを感じているという現実は、先に述べた作戦がまんまと成功をおさめた好例と言えるのではないでしょうか。
今週のいて座もまた、みずからの意識の深いレベルにすでに浸透しているそうした「内なる野生」を改めて呼び覚ましていくにはもってこいのタイミングと言えるでしょう。
いて座の今週のキーワード
原初の連帯の回復