いて座
真面目さを手放す
「資本主義に普遍的世界史な必然性などありません」
今週のいて座は、神経症患者の診察のごとし。あるいは、どうにかして資本主義的なリアリズムを相対化していこうとするような星回り。
思想史家の関曠野は2016年に刊行された『なぜヨーロッパで資本主義が生まれたかー西洋と日本の歴史を問いなおすー』の中で、「資本主義に普遍的世界史な必然性などないのだ」と断じた上でこう述べています。
近代日本が極東の国でありながら近代化していわゆる経済大国になったことが、資本主義は普遍的な現象という錯覚を生んでいるのかもしれません。しかし、この日本でさえペリーの黒船など欧米列強の軍事的脅威なしには西洋化することはなかった。現在の世界では、中国さえ一見資本主義化していますが、どうみてもその実態はハリボテなのです。
関はその論拠として、いくら資源やテクノロジーが潤沢にあってもそれだけでは資本主義は成立せず、その真の成立のためには「罪の経済」という精神が必要なのだといいます。すなわち、アダムとイブが原罪を犯して楽園を追放されたというキリスト教の原罪論が、のちに「人間の神に対する負債、罪滅ぼしとしての労働」という観念と結びついて、いわば「魂の救済を金で買う」という発想が近代のアングロサクソンにおいて資本主義と適合したエトスとなったのであり、これこそがヨーロッパ文明の特徴なのだと述べています。
そして、経済成長をやめなければ人類の存続が危うくなることがはっきりしているのに、果てしない経済成長を求める資本主義から脱却できないのは、それが「宗教のかたちをした神経症」だからであり、「資本主義は貧困とか搾取ということよりも精神病理で人間を不幸にする」のだというたいへん重要な指摘もしています。
当然、日本人は「罪の経済」という精神を受け入れていませんし、そもそも神道と仏教の国である日本には本来そうした精神に付き合う必要も心性もありません。その意味で、5月28日にいて座から数えて「世間との折り合い」を意味する10番目の星座であるおとめ座で上弦の月を迎えるべく光が戻っていく今週のあなたもまた、まずは自分が「宗教のかたちをした神経症」にかかっていることを認めるところからスタートしていくべし。
真面目さという罠
例えば、箸と橋は同じ「ハシ」という音でもまったく別ものです。ただ一方で、音で繋がっているというだけでも、そこには「箸」というものがただ食事の際に使われる長さ数十センチの棒状の物体に過ぎないという機能的役割から解放され、自由になっていく可能性が開けているのであり、その自由が人の心を救うことだってあるのではないでしょうか。
何を荒唐無稽(こうとうむけい)なことを、と思うかも知れませんが、それだけ人間の「真面目さ」というものが怖いものだということを伝えたかったのです。これは、私たち現代人がからだから力を抜くのがどうにも下手で、窮地に陥るほどに力を入れてますます頑張ろうとしてしまうこととも似ているかも知れません。
「自分は真面目にやっているのだから大丈夫」が、「真面目にやっているのにどうして」に変わってきても、自分のやっていることをまだ自分の中だけに納めているうちは、なかなか真面目さというのは手放せないものです。ですが、自分が真面目にやっていることが、全然違うところで適当にやっている(ように見える)人たちと大して変わらないじゃないか、ということになってくると、途端に真面目さは壊れてくる。
なんだか自分が滑稽で、笑えてくる。この滑稽さということが大本になって、自分の中で地滑りが起きて始めて、こころの病いというのは治癒していく。今週のいて座は、そうした意味での滑稽味というのを、いつも以上に味わっていくことができるかも知れません。
いて座の今週のキーワード
「精神病のない資本主義はありえない」(関曠野)