いて座
たまたまできた詩のような人生
無意味さを呑み込む
今週のいて座は、『物指(ものさし)で背(せな)かくことも日短』(高浜虚子)という句のごとし。あるいは、ある種の現代アートとして日常を演じていこうとするような星回り。
「物指」で背中をかくことと、冬の季語である「日短(ひみじか)」のあいだには、何ら意味のある関係はありません。
掲句で起きているのは単に物指で背中をかいたというだけの内容であり、その後に「ひ・みじか」というつぶやきだけが無意味なまま残って終わっている。それだって、「むなしい」とか「さびしい」といった感情は特には感じられず、にも関わらず両者は「も」という助詞で結ばれています。
ここでは思いがけないこと自体がこの結びつきの本質であり、しいて言えば、そうした日常や人生というものに潜む本質的な無意味さに対して呆然としつつも、どこかでそれを受け入れているような気分が漂っている。
今こうして背中を物指でかいていることも、「〇〇」といった名前をもって生きていることも、課された仕事に向き合っていることも、すべて“たまたま”であり、ほんらい絶対的な必然性というのはありえない。
同様に、11月8日にいて座から数えて「美学」を意味する6番目のおうし座で皆既月食を迎えていく今週のあなたもまた、そういうこの世の不条理さをいったん呑み込んだ上で、それでも背をかき続け、日短の日常を生きていくべし。
袁枚の「偶然作」
18世紀中国(清)の文人であった袁枚(えんばい)は、24歳という異例の若さで科挙に合格したものの、田舎まわりの生活に嫌気がさして38歳で隠遁したのち、「随園」と名付けた庭園のある邸宅に隠遁したとされています。
彼は美食でならし、各地の食材や料理のレシピについて綴った『随園食単』によって、「西のサヴァラン、東の随園」と言われるほどに歴史的にも有名な人物ですが、その本領とするところは詩文でした。彼には「偶然作」すなわち「たまたまできた詩」という、漢詩にはお約束のタイトルの作品があり、賭け事以外の遊びにことごとく手を染めてきた自分が、ある日を境に変わってしまったことを次のように歌っています。
忽忽四十年 味尽返吾素
惟茲文字業 兀兀尚朝暮
すなわち「ところが四十になると 遊び尽してやっと本来の自分に返ったかのように、本を読むことが急に面白くなり、毎日ひたすら読書にばかり明け暮れるようになった」と。
今週のいて座もまた、そんな一節を書いてその通りに生きてしまった袁枚のように、自分が今それを生きつつある脈絡のない変化変容に思い当っていくことになるかも知れません。
いて座の今週のキーワード
もののはずみ