いて座
誤配と連結
「親ガチャ」ならぬ「親とガチャ」
今週のいて座は、ある父子の「汽笛あそび」のごとし。あるいは、何かを介した「連結」的な関わりに運ばれていくような星回り。
劇作家で歌人の寺山修司は、自叙伝『誰か故郷を思わざる』の中で父と過ごした数少ない記憶をたぐりつつ、よく2人でしていた「汽笛あそび」について次のように述べています。
夜寝ていると、遠い闇のなかで汽笛が聞こえる。すると、「上り、か?」父が言う。「下り、だ」と私が言う。「じゃあ、おれは上りだ」と父が言う」。そんなやり取りを繰り返したのち、寝巻のまま2人で家を飛び出し、線路脇のしげみで汽車が近づいてきて「音が、形態に変わる」のをジッと待っている。
夜風の中で、汽笛がはっきりと方位をしめし、やがて凄まじい勢いで私たちの前を通りすぎてゆく。それはいわば汽車というよりは重い時間の量であった。そして、愛によってではなく思わず眼をつむってしまうような轟音と烈風の夜汽車によって、私と父とは「連結」されていたのだとも言える。
父との思い出らしい思い出はこれだけだそうですが、果たしてこの父子の絆は脆くはかないものだと言い切れるかと言えば、決してそうではないでしょう。
同様に、6月29日にいて座から数えて「偶然と開かれ」を意味する8番目のかに座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、たまたま目の前に現われたものを介して、みずからの結んだ絆を再確認していくことでしょう。
離接的偶然に導かれ
俳句であれ小説であれフィクション(虚構)は現実との関係性の中で、つねに早とちりや解釈の取り違えなど、いわゆる「誤配」の可能性を孕んでいますが、人生に必ずしもたった一つの正解などありえないように、読み手にとっての正解はあくまで読み手自身の手によって創り出されなければなりません。
例えば哲学者の九鬼周造は、単なる偶然とは区別して「離接的偶然」ということを言いだしましたが、これはもともと日本語にあった「たまたま」や「ふと」、「はずみ」、「なつかしさ」などをそれらしく言い換えたもので、ここにはある種の日本人特有の運命感覚のようなものが立ち現れているように思います。
無根拠で、必然的でもない自分が、現にいまこうして生きていることもまた、ものの「はずみ」であり、「たまたま」そうであっただけだけれど、そういう偶然を愛そう。そして、これからも「ふと」思い立ったことや、理由もなく「なつかしく」感じたことがあれば、それに身を任そう。それが例え「まちがい」だとしても。
その意味で、寺山の「汽車あそび」のくだりが仮に創作だったとしても、ある種の「もののはずみ」であり、みずからの生の軌跡をその出所と連結し、運命愛を芽生えさせていく上で必要不可欠な手続きだったのでしょう。
今週のいて座もまた、どこかでそんな運命愛のようなものが湧いて、これまでしっくり来ていなかったものが腑に落ちてくるかも知れません。
いて座の今週のキーワード
そういう偶然を愛そう