いて座
朝を待つ
前日の真夜中
今週のいて座は、祭りの始まりのごとし。あるいは、一番終わりのところから何かが始まっていくような星回り。
柳田國男が『日本の祭り』の中で「祭りは夜から始まる」ということを書いていましたが、確かに現代では、観光的な見どころである目玉パフォーマンスをイコール祭りだと思っている人が多いですが、実際にはそうではなく、前日の真夜中から、夜の中の死者との出会いから、そして死者への祈りから始まるものでした。
こうした「死」の時間帯、すなわち、何も見えないところに、死を感じるしかないような時間に籠もることを通して初めて、再生の儀式としての祭りはその本来の意味を為すのです。そして、夜が明けて出し物や山車、神輿などの目に見えるものが現れてくる。
その流れ自体が、ひとつの再生のプロセスをなぞっている訳ですが、籠もっている間に、生きている人間のできることというのは、「待つ」ことだけなんです。これは人間が治癒していく過程にも重ねられる話で、ただひたすら夜が明けるのをしっかりと籠もりながら待つことしかできないという時期をすっ飛ばしてしまうと、そこから起きる再生や治癒というものも中途半端なものになってしまうんですね。
その意味で、16日にいて座から数えて「一番終わり」を意味する12番目のさそり座で満月を迎えていくあなたもまた、自分なり「待つ」ことを深めていくことがテーマとなっていきそうです。
津島佑子の『光の領分』の<私>
『光の領分』という連作短編小説の主人公である<私>は、藤野という男と結婚している若い母親で、藤野は自身が経済的に自立していないことを理由に婚姻関係を結びながらも<私>とは別居しており、愛人と暮らしています。
藤野は別居するにあたり<私>の引っ越し先を勝手に決めてしまうのですが、当初の<私> はそれに対して「自分の住む場所なのだから、自分で選びたかったのに」とは思わず、むしろ「一人の男に引き摺られていく快感」を覚えます。しかしやがて藤野の身勝手な態度に疑問を抱き、その部屋を出て、自分で決めた家に子どもと移住するのです。
その新居は奇しくも、夫の名前と重なる「フジノビル」というビルの最上階の一室であり、はじめはそのことを偶然の一致だと考えていた<私>も、物語終盤で「私はビルの名前にも、自分自身の夫との深いつながりを感じ、それに身をまかせてみようと思っていたのかもしれなかった」と回想している。つまり、<私>はみずからのことを「夫」に従属する「妻」として自分で位置付けていた訳ですが、と同時にそのことに違和感を覚え、抵抗し続けているという極めて矛盾した状態にあったということになります。
作中で<私>は繰り返し夢を見ますが、他にも偶然聞いたテープの音声や、訳の分からないことをわめく酔っ払いの口から、例えば「夜は暗い、朝よ来たれ」とか「思案なんかいっさいやめにして、まっしぐらに世間に飛び出しましょう」など、メッセージなのか幻聴なのか分からない言葉を聞いてしまうのも、きっとそんな身分の定まらない不安定さゆえ。
同様に、今週のいて座もまた、“世間”に飛び出していくための最適な出入口を、できるだけ焦らず時間をかけて見定めていきたいところ。
いて座の今週のキーワード
不安定な身分とその先に開けてくるもの