いて座
沈黙を受け止める
行く末へのまなざし
今週のいて座は、「墓参より戻りてそれぞれの部屋に」(波多野爽波)という句のごとし。あるいは、自分がこの先どこへ向かっていくのか、浮き彫りにされていくような星回り。
兄弟の多い家族の親の墓参りでしょうか。話としてはよくある話ではありますが、切れもなくどこかのっぺりと描かれており、そこはかとなく不気味な後味が残る句です。
年末というのは特に慌ただしいものですが、私たちは普段から目の前の雑事に追われ、自分のことをこなすので精一杯で、他人のことを考えたり手間をかけたりするだけの余裕さえありません。
しかし掲句では、ともに墓参りするような間柄の親族や兄弟であっても、哀しいことをわかちあったり、うれしいことを共有したりするようなきっかけさえ与えられていません。その根底には、やはりのっぺりとした直線的な時間の流れがあり、墓から戻った「それぞれの部屋」もまた、どこか無機質な墓に他ならないのではないか、という現代社会への作者の皮肉とも悲哀ともつかないほのめかしが込められているように思います。
それでも、私たちもいつかは墓に入るのであり、そのことを真剣に考えてみれば、参ったはずの墓にも無数の先祖たちが眠っていて、繰り返される輪のようなもうひとつの時間の流れがそこに潜在していることにも思い当たっていくはず。
同様に、19日にいて座から数えて「行き着く先」を意味する7番目の星座であるふたご座で満月を迎えていくところから始まった今週のあなたもまた、自身の行く末や乗りつつある流れについて、できるだけ俯瞰的にまなざしてみるといいでしょう。
語る人である前に聴く人であること
沈黙というと、私たちはついそこに何もない空白や空虚ということをイメージしてしまいがちですが、ひょっとしたらそれはそう見えるだけで、私たちが理解する言葉や感覚できる音とは別の秩序の言葉がそこに訪れているのかも知れません。
そして、沈黙とは何ものかの雄弁な語りである、と積極的な肯定にまで及んでくると、それは詩人の立つ境地となります。例えば、リルケの『ドゥイノ悲歌』の次のくだり。
声がする、声が。聴け、わが心よ、かつてただ聖者たちだけが
聴いたような聴き方で。巨大な呼び声が聖者らを地からもたげた。
……おまえも神の召す声に
堪えられようというのではない、いやけっして。しかし、風に似て吹きわたりくる声を聴け、静寂からつくられる絶ゆることないあの音信(おとずれ)を。
……あれこそあの若い死者たちから来るおまえへの呼びかけだ。
風のように吹き、静寂のうちに生み出される「音信」は死者の声に他ならず、神の言葉を聴く聖人になどなれない私たちは、せめて死者の声を聴こうと言うのです。ここで言う死者とは、祖先であり星であり天使でありガイドであると言ってもいいかも知れません。
今週のいて座もまた、ただ素朴に手を合わせ、両腕を広げて誰かを沈黙を受け止めていくような一見何でもないような時間をこそ大切にしていきたいところです。
いて座の今週のキーワード
祖先であり星であり天使でありガイド