いて座
落葉的瞬間の感受
潜んだ音楽に触れること
今週のいて座は、「舞うてゐし庭の落葉の何時(いつ)かなし」(高浜虚子)という句のごとし。あるいは、間の不思議によぎられていくような星回り。
風に吹かれて落ちる葉がある一方で、風もないのに枝を離れる葉もある。いつ見ても庭に落葉が舞っていた。ところが、ふと気が付くと、あれほど舞っていた落葉が途絶えている。
当たり前のようにあったものが、いつの間にかなくなっているという不思議。もちろん、また時がたてば盛んに舞い落ち始めることでしょう。しかし、そうしたささやかな一瞬の「間」を捉えた作品。
こういう作品は、慌ただしく日常に追われるようになった現代の日本人はなかなか詠めなくなってしまったのではないでしょうか。
日常の風景のささやかな変化を捉えるだけの感受性というのは、やかんでお湯が沸かした時の音に耳を澄ましたり、寿司の肴の色が変わる分かれ目を見たり、ポツンと雨が降ってきたときの最初の点線だったり、そういう日常に潜んだ音楽を感じることで少しずつ育まれていくものなのです。
19日にいて座から数えて「生活リズム」を意味する6番目のおうし座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、そうした「間」や「音楽」を自身の日常に取り戻していきたいところ。
セネカの問いかけ
ここで思い起こされるのが、ローマの哲人セネカの『人生の短さについて』という著書。タイトルに反して70歳を超えるほどの長生きしたセネカですが、この本の中で繰り返し述べているのは、人生はみなが思っている以上に短くはないし、時間の使い方次第で相当のことができるが、自分の時間を生きていない者はその限りではない、ということ。
何かに忙殺される者たちの置かれた状況は皆、惨めなものであるが、とりわけ惨めなのは、自分のものでは決してない、他人の営々とした役務のためにあくせくさせられる者、他人の眠りに合わせて眠り、他人の歩みに合わせて歩きまわり、愛憎という何よりも自由なはずの情動でさえ他人の言いなりにする者である。そのような者は、自分の生がいかに短いかを知りたければ、自分の生のどれだけの部分が自分だけのものであるかを考えてみればよいのである。
自分の教え子に自害を迫られたセネカは、最後に何を思ったのでしょうか。そういう意味では、彼の人生そのものが今週のいて座の人たちへの問いかけのように思えてきます。
いて座の今週のキーワード
みずからの生を自分のものにしていくこと