いて座
新たな文脈の発見
既成の文脈を離れることの必要
今週のいて座は、処女小説『風の歌を聞け』を書いたときの村上春樹のごとし。すなわち、これまでとは異質な生活世界が構築できるかどうかが問われていくような星回り。
村上は今から40年前の1979年6月、先の小説で群像新人文学賞を受賞しデビューしましたが、その際、物語を当初は英語で書いてみたり、あるいは、いったん書いた物語をバラバラにし、シャッフルして再構成するという手続きを踏んでいったのだそうです。
彼はそこで何をしようとしていたのか。それについて、例えば次のように述べています。
「結局、それまで日本の小説の使っている日本語には、ぼくはほんと、我慢ができなかったのです。我(エゴ)というものが相対化されないままに、ベタッと追ってくる部分があって、とくにいわゆる純文学・私小説の世界というのは、ほんとうにまつわりついてくるような感じだった。」(『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』)
つまり、日本社会に蔓延していた空気感だったり、無意識のうちに体に染み込んでいた文脈を、言葉の単位まで分解・解体し、その上で体内にまったく異質の物質を再合成するかのごとく、物語を紡いでいったのです。
12日(木)には「文脈の発見」のタイミングでもある満月を、いて座―ふたご座で迎えていく今週のあなたもまた、自分がこれから新たに生きようとしている文脈の端緒を、相応の苦闘の末に見つけていくことができるはず。
恥をガソリンにして
詩人はなぜ、詩を書くのか。それに対する最も説得力のある鍵は「恥」の感情でしょう。
つまり、汚れの落ちきらない不快な傷跡だから、言葉で飾ってつかのまの安堵を求めるのであり、だから詩人の書き上げる詩の透明度とは、詩人の人生の汚染度であり、言葉になった珠玉の数はすなわち恥の数に他ならないのだと言えます。
恥の上に恥を重ね、それを捨てることもできずずるずると引きずり、数えきれない恥を数珠のように繋ぎあわせながら、未練がましくそれを首に巻いて歩いていく。
要は、喧嘩する度胸もなくて笑ってごまかしたり、人の憐れみにつけこんで何かものをもらったり、さんざん人を振り回しておいて悪気はないとうそぶいて最後は逃げてしまったりと、私たちの誰しもが持ち得るような、およそ平凡な痛みに貫かれているのが詩人の魂なのです。
恥があふれにあふれて、詩人の掌からこぼれ落ちたとき、それが砂金のようにきらめく詩篇となっていく。「新たな文脈を発見する」というのは、もしかしたらそんな瞬間のことを言うのかも知れません。
今週のキーワード
痛みと恥の錬金術