
うお座
血と心臓をつなぐもの
「配置」というアプローチ
今週のうお座は、蘭と蘭の受粉を手伝うスズメガのごとし。あるいは、非人称的な意識や関係性のなかで「うまくいく」感じを探っていこうとするような星回り。
もし私たちが、人類の精神史を古代から参照しなおすならば、実に世界を「配置」として捉える思考方法が中心的であった期間は、世界を認識する意識的な「主体」が幅を利かせている期間よりも、ずっと長いことに気付かされる。
これはキリスト教思想研究者の柳澤田美の論文「馬に乗るように、ボールに触れ、音を奏でるように、人と関わる」からの引用ですが、確かに人間は長らく内的必然性や情熱の高まりに頼る代わりに、「配置」、すなわち何らかの「型」や「脚本」に則って世界への身を置き方を適切に態勢づけ、必要な変化や成長を遂げてきたのではないでしょうか。
この「世界は配置(disposition)であり、人間は自らを取りまく配置によってたえず態勢づけられている(disposed)」という捉え方は、「世界を認識主体の構成物あるいは表象として捉える近代的な世界観」を相対化していくためのアプローチであり、「わたし」や「あなた」や「彼ら」などの特定の人称から離れた、非人称的な「うまくいく(going well)」が成り立つとき、そこで一体何が起こっているのかを明らかにする試みなのだと説明されています。
この関わりの「程度」は完全に数値化できるものではない。そして既存の概念もまた、なかなかこうした「うまくいく」ための関わりを十分には言い表してはくれない。「調和」「統一」といった概念は、美学的でもあり倫理的でもあるが、いずれにしてもこれらは、全体において成し遂げられた構成(composition)に向けられた概念であり、あれとこれが「うまくいっている(going well)」ことを示すには不十分である。こうした事実を前に、「うまくいく」を言語化不可能なものとして認識の外部に置くのは、あまりにも口惜しいように思われる。確かにうまくいかない事態、しかもうまくいく可能性すら見出せない事態は枚挙に暇がない。しかし、このたくさんのうまくいかない状況にも拘らず、私たちは、あるいはサッカー選手たちや演奏家たちや(砂場で一緒に遊んでいる)子どもたちは、(…)確かに「うまくやってきた」のである。あたかも、蘭と自らの使命を知らずに蘭の受粉を手伝うスズメガのように。
このように柳澤は「配置」というアプローチこそ、これまでの強い概念では捉えられなかった「幸福な倫理の可能性」に光が当てていくことができるのではないかと考えた訳です。
10月30日におひつじ座から数えて「全体の調整」を意味する12番目のみずがめ座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、コミュニティや世の中に対する自分のポジショニングの仕方やその細やかな調整に、改めて意識を向け直してみるといいでしょう。
血と心臓と愛と
かつて生物学者のライアル・ワトソンは『生命潮流』のなかで、生命の本質を「時間的・空間的広がりと、広がりへの意志」として捉えました。また、精神科医のミンコフスキーは『生きられる時間』において、時間は「…力強い大海原である。それは生成である。…時間は流れ、過ぎゆき、償いがたく逃れ去る。が同時に、それは前進し、進歩し、無際限でかつまた捉えがたい未来へ向けて出立する」と述べました。
彼らのような視点は、シンボリズムの世界では古来より人と世界を貫いて巡る「血」と、その循環を司る「心臓」において表現されてきました。少なくとも18世紀までは、「血液はすべての体液の父」と言われてきましたし、からだ中を絶えず流動しては濡らす血は、死体の不動と対照をなし、長きにわたる伝統に基づいた生命の象徴だったのです。
動脈を通して臓器や四股の末端まで酸素や栄養分を届け、静脈を通じて働きを終えた血液を戻すという心臓の「正しい動き」のおかげで、肉は生温かくなり、人は自己を自立して構成し、話し、聞き、動き、見、触れ、味わい、匂い、愛しあうことができる。
さらに言えば、こころ動いたときに流れる涙も、人に対する愛もやはり血であり、心臓から送られてくる波であり、人と世界を貫いてめぐる生命現象なのではないでしょうか。
つまり、生命としてきわめて自然な衝動に文字通り身を任せていくとき、脳という小君主の小賢しい作為や操作をこえて、血と心臓という対に第三の用語である「愛」が加わっていくのだということ。今週のうお座は、そんな足し算を頭の隅に思い浮かべながら過ごしてみるといいでしょう。
今週のキーワード
納豆、青魚、玉ねぎ







