
うお座
立っている場所の裏や奥

音楽には高級と低級の差などない
今週のうお座は、高級と低俗をめぐる対立の先へといたる流れのごとし。あるいは、既存の勢力図や構図が書き換わっていくその渦中に立ち入っていこうとするような星回り。
6月下旬にラッパーのNENEが、ガールズグループHANAや彼女たちをプロデュースしたちゃんみな、所属レーベルのCEOであるSKY-HIらを想起させるディスソングを発表したことを発端にビーフが勃発し、ファンダムを巻き込みながら「ヒップホップ・シーン vs. ポップ・シーン」という価値観の衝突へと発展していったことが、ここのところSNSなどでも大きな話題となっていました。
こうしたことはクラシックとポップスの間でも起きてきたことではありますが、『反音楽史』を書いた石井宏は、同様のことがいわゆる「クラシック音楽」の中でも起きてきたのだと指摘しています。いわく、「正統派」と言うといつだってバッハやベートーヴェン、ブラームスやモーツァルトを輩出したドイツ中心、そして器楽中心というイメージがあったが、逆に言えば、声楽や、イタリア・オペラはそこから排除されてきたのだと。石井はそうした指摘を踏まえ音楽史を書き換えつつ、読者に次のような問いを投げかけています。
こうした差別と偏見―クラシックは高級で、ポップスは低級、クラシックの演奏家は芸術家だがポップスの演奏家は流行歌手やバンドマンに過ぎない―それはいまもはびこっていて、世界的に信じられている。しかし、ほんとうに音楽には高級と低級の差があるのだろうか。ほんとうに美空ひばりは低級なのだろうか。ベートーヴェンを聴かずにひばりばかり聴いている人間はほんとうに低俗な人間であるのだろうか
むろんその答えは「否」であるわけですが、石井は何よりも弾き手/歌い手がいて、聴き手がいて、音楽が成り立つという考え方に立ち戻るべきであり、いまのクラシック界にはそれがないと批判しています。
例えば、「悲しい酒」は美空ひばりのために書かれた曲ではなく、最初は別の男性歌手がレコードに吹き込んだのですが、それはヒットせず、のちに美空ひばりの絶唱によって世に出て初めて百万人の愛唱歌となりました。
7月7日にうお座から数えて「根差す文化」を意味する4番目のふたご座に「抜本的な転換」をもたらす天王星が移っていく今週のあなたもまた、これまで「安パイ」や「勝ち馬」とみなされてきたものから、これから自身の周りに浸透し、広がっていきそうなものへと軸足を移していくような流れに、なにかと巻き込まれていきやすいでしょう。
裏の聖地感覚
ここで思い出されるのが、宗教学者の鎌田東二が『聖地感覚』において言及していた、聖地にはかならず表と裏、前と奥があるという話です。
いわく、「「裏」や「奥」が見えなければ、けっしてこの世ならざる光景を目撃することはな」く個人の現実感覚がこの世界の大いなる循環とつながり、深まっていくこともないのだと指摘した上で、そんな「裏の聖地感覚」の好例として、太宰が戦中に書いた紀行小説『津軽』を取り上げています。
あれは春の夕暮だつたと記憶しているが、弘前高等学校の文科生だつた私は、ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立つて、岩木山を眺望したとき、ふと脚下に、夢の町がひつそりと展開しているのに気がつき、ぞつとした事がある。私はそれまで、この弘前城を、弘前のまちのはづれに孤立してるるものだとばかり思つてるたのだ。けれども、見よ、お城のすぐ下に、私のいままで見た事もない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひつそりうづくまつてゐたのだ。ああ、こんなところにも町があつた。(…)私は、なぜだか、その時、弘前を、津軽を、理解したやうな気がした。この町の在る限り、弘前は決して凡庸のまちでは無いと思つた。(『津軽』)
太宰がここでいう「夢の町」の「ひつそりうづくまってゐ」ながらも、「ぞつと」するほどの圧倒的な存在感をもって迫って来るリアリティこそが、聖地の裏や奥をまなざす感覚であり、それが目の前で雄大にそびえたつ岩木山とセットとなったとき、太宰にとってそれまで単なる生まれ故郷の土地以上のものではなかった「津軽」が、はじめて名実ともに自身の聖地となったのです。
ひるがえって今週のあなたもうお座もまた、自身がホームとして根差しているある種の「聖地」に対して、きちんと「裏」や「奥」が見えているか、ということが一つのテーマとして突きつけられていくかも知れません。
うお座の今週のキーワード
「息をひそめてひつそりうづくまつてゐた」





