
うお座
捨て身であってこそ贈与は成り立つ

ほんの一瞬のゾッとする体験
今週のうお座は、「蛇逃げて我を見し眼の草に残る」(高浜虚子)という句のごとし。あるいは、こちらの理解を超えたところにあるような‟まなざし”を不意にキャッチしていくような星回り。
ここには、ある一瞬の遭遇体験がもたらす戦慄と残像、そして自然の中に差し込まれてくる異界的なまなざしの質感が凝縮されています。作者は写生俳句の大家ではありますが、これは単なる「自然の描写」というより、もっと深い「存在との対峙」を感じさせる異質な気配の句です。
「蛇逃げて」の一語には、衝突ではなくすれ違いの感覚があります。にゅるりと草むらの奥へと逃げていく蛇の様子をふっと眼で追っていたその最後の刹那、作者は蛇と眼が合い、その眼光のあまりの鋭さと不気味さにゾッとしたのでしょう。
蛇の眼にはまばたきがありません。冷たく、濡れておらず、無表情でありながら、異様に鋭く、こちらの存在の芯を刺しとおすようです。これはすなわち、こちらが自然を観察しているのではなく、自然の側からこちらが意志をもって見られているという畏怖の逆転を意味し、その霊的な痕跡が残像としていつまでも作者の中に残っているわけです。
それは「この世界には我々が気付いていないが、確かに‟見てくる”存在がいるのだ」といったような、どこか神話的な気配をも感じさせますが、より身近な体験に置き換えれば、たとえば夜道でふと誰かに見られていたような感覚だったり、夢から覚めたにも関わらず夢のなかで何かに見られていた余韻だけがまだ残っているような感じにも通じています。
下五が「草に残る」とスパっと終わらず、字余りになっているのも、そうした何かを引きずっている感覚を強調しているようで、効果的に働いているように感じます。
6月17日にうお座から数えて「相対するもの」を意味する7番目のおとめ座に火星が移っていく今週のあなたもまた、畏怖であると同時に神聖さすら孕んだ、まなざしの記憶が不意によみがえってくるかも知れません。
捨て身でいるということ
本来、人間だって狩りの対象である獣に逆に殺され、喰われる可能性だって幾らでもあるはずで、本当の意味で自然と共に生きてきた人は、いつもどこかでわが身をときに自然に贈与することと引き換えに、獲物を得ているという感覚があったのではないでしょうか。
ひるがえって、現代の私たちはどうか。大いなる自然の食物連鎖など知らぬ存ぜぬと言わんばかりに、金銭をもって獣や魚の肉を買い、安全な場所で食らう。もちろんそれは町場にいれば当然のことではありますが、自然の循環から遠く離れたところで、狩られた野生のいのちではなく、屠られた家畜の成れの果てを吸収し続けていれば、自身もまたいのちの枯れた死に体に近づいていくのもごく自然な成り行きであるとも思えてきます。
ある狩人は、「忍び撃ちは卑怯だ」と語ったという。数百メートルも離れたところから、ライフル銃で熊を撃つことを指して、ぽつりとそう言ったのです。恐らく彼らの中には、賭けにも似た、捨て身の贈与を介して初めて成り立ついのちの循環や脱人間中心主義的な思想が自然に息づいているのでしょう。その意味では、先の狩人のつぶやきこそ珠玉の俳句でもあるのかも知れません。
今週のうお座もまた、そうしたわが身を贈与する可能性ということに想いを馳せつつ、捨て身の賭けに出ていくような機会をおのずと探し求めていくことになるでしょう。
うお座の今週のキーワード
「忍び撃ちは卑怯だ」





