
うお座
奇妙な儀式の自然な結末

メリー・ゴーラウンドにて
今週のうお座は、『回転木馬のデッド・ヒート』の一節のごとし。あるいは、夢の中で浮かび上がるさまざまな顔の中から、自分に似た人を見つけ出しそこに惹き込まれていくような星回り。
村上春樹の初期の短編集である『回転木馬のデッド・ヒート』には、「他人の話の中に面白味を見出す才能」について述べられた一節が登場します。
これは自分自身の話をするよりも、平凡な人の平凡な話を聞く方がずっと面白く感じられるという、単純な事実にとどまらず、そこではしばしば特殊な人の特殊な話よりも、自身の内面深くに抑圧していたある想いと響きあう何かが見出されるのだ、という一歩踏み込んだ話に通じていきます。
他人の話を聞けば聞くほど、そしてその話をとおして人々の生を垣間見れば見るほど、我々はある種の無力感に捉われていくことになる。(…)我々はどこにも行けないというのがこの無力感の本質だ、我々は我々自身をはめこむことのできる我々の人生という運行システムを所有しているが、そのシステムは同時にまた我々自身をも規定している。それはメリー・ゴーラウンドによく似ている。それは定まった場所を定まった速度で巡回しているだけのことなのだ。どこにも行かないし、降りることも乗りかえることもできない。
メリー・ゴーラウンドでは、周囲の木馬が上がったり下がったりを繰り返されていきます。つまり、そこでは相手や会話の内容自体は変わっていくものの、私たちを大して変わり映えのしない人生へとはめ込んでいくという点ではどれも一致しているのだ、と。
事実というものがある場合に奇妙にそして不自然に映るのは、あるいはそのせいかもしれない。我々が意志と称するある種の内在的な力の圧倒的に多くの部分は、その発生と同時に失われてしまっているのに、我々はそれを認めることができず、その空白が我々の人生の様々な位相に奇妙で不自然な歪みをもたらすのだ。少なくとも僕はそう考えている。
4月18日にうお座から数えて「通過儀礼」を意味する6番目のしし座へと火星が移っていく今週のあなたもまた、自由意志などという架空のはりぼてなど打ち捨て、おのれのあるがままの運命を受け入れていく勇気を発揮していくべし。
ひとりでは泣くに泣けない
ノーベル文学賞作家であるギュンター・グラスの代表作『ブリキの太鼓』では、戦中から敗戦後にかけてのドイツ社会解体の混乱が、緻密かつぶざまに、ときにグロテスクなユーモアをまじえて描写されているのですが、その中にライン河畔の市にある「玉ねぎ地下酒場」の場面があります。
酒場ならばビールやワインが飲めるばかりでなく、ちょっとした料理が食べられるのが普通ですが、ここではそういうものは一切出ません。客のまえには、まな板と包丁が並べられ、そこに生の玉ねぎが配られるのみ。つまり、このまな板の上で各自めいめいが玉ねぎの皮をむき、好きなように切り刻んで、それをご馳走にしろという、なんとも人を食ったシステムなのです。
ただ、こうしたバカバカしいことをするために、わざわざ料金を払ってやってくる客がいるのも事実。それは一体どういうことかと言うと、玉ねぎを切れば客の目には涙が流れる訳ですが、それがミソになっていると。
その汁がなにを果たしてくれたのか?それは、この世界と世界の悲しみが果たさなかったことを果たした。すなわち、人間のつぶらな涙を誘い出したのだ。
今週のうお座もまた、自分ひとりだけでは難しいことに誰かや何かの力を借りて取り組んでみるといいでしょう。
うお座の今週のキーワード
我々はどこにも行けないという無力感





