うお座
ぽっぽー!
幸福論のゆくえ
今週のうお座は、寺山修司の『幸福論』のごとし。あるいは、なつかしさとあこがれを込めて自身の幸福について語っていこうとするような星回り。
20世紀を過ぎてから、古代から近代まで連綿と西洋世界で書き継がれてきた幸福論はぱたりと書かれなくなり、代わりに不幸論や苦悩論が盛んに書かれるようになりました。
ナチスに協力した一般人の心理的傾向を研究した、ドイツ出身のユダヤ人思想家アドルノなどは「アウシュビッツのあとで詩を書くことは野蛮である」とまで書きましたが、確かに、おいしいものを食べるのであれ、愛する人と心ゆくまで肌を重ねるのであれ、陶酔の後には必ず倦怠が訪れ、幸福とは束の間しか続かないかりそめのものであり、むしろ不幸なときに養われる一つの幻想、実体のないイメージに過ぎないのだとも言えます。
ただ、その一方で日本の寺山修司は同じ20世紀に著した『幸福論』の中で、「幸福の相場を下落させているのは、幸福自身ではなく、むしろ幸福という言葉を軽蔑している私たち自身にほかならない」と言い、さらに「幸福が終わったところからしか『幸福論』がはじまらないのだとしたら、それは何と不毛なものであることだろう」と喝破したのです。
イメージであっても、一瞬であったとしても、それでもいいではないか。幸福について考える時ほど、自分を時のなかを漂っては流れゆく存在であることを痛いほど思い知らされることはない。だからこそ、一瞬しか訪れることのない幸福のイメージを、私たちは自分の手で豊かに膨らませていかなければならないのではないか。寺山の言葉は、そんな風に語りかけているように思います。
幸福について語るとき位、ことばは鳥のように自分の小宇宙をもって、羽ばたいてほしかった。せめて、汽車の汽笛ぐらいのはげましと、なつかしさをこめて。
8月13日にうお座から数えて「探求」を意味する9番目のさそり座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、みずからに訪れた幸福や、これから掴み取りたい幸福について、縦横に語りあい、そのイメージをたおやかに広げていきたいところです。
鈴木重子さんに訪れた転機
名門ブルーノート・ニューヨークに、日本人ヴォーカリストとして初めて出演したヴォーカリストの鈴木重子さんが、以前インタビューの中で面白いことを言っていました。彼女は東大卒の秀才としても知られ、少女時代は勉強に明け暮れる日々だったのだそうです。
私は毎日、明日のために生きていた。明日の試験のために勉強する。明日の何かのためにこれをやる。でも先生たちは、いま音楽をやっているのが幸せと言っておられた。その違いって大きい。こんなに充実して、こんなに生き生きしている人がいるとは思ってもみなかった。それまで私は、今日やりたいことをやって、明日どうするんだろうって思ってたんですよ。「今日やりたいことをやるとハッピーだから、明日もやりたいことができる」っていう循環について考えたことがなかったんですね。それを気付かせてくれたのがこの二人だった(「weekendインタビュー―MSNピープル」)
彼女はこうして「今後の抱負を考えるより、その日のこと、今この瞬間のことを大事にする生き方」を体得したそうですが、これはアリとキリギリスの寓話のキリギリスのようなその日暮らし的な刹那主義と一見すると似ていますが、実際にはまったく異なるのではないでしょうか。
今週のうお座もまた、できればこれくらいの率直さでみずからの「ハッピー」の出どころや構造について語ったり、問うたりしてみるといいでしょう。
うお座の今週のキーワード
「今日やりたいことをやるとハッピーだから、明日もやりたいことができる」