うお座
(拝手)
どうしても無視できないもの
今週のうお座は、『時計屋の微動だにせぬ金魚かな』(小沢昭一)という句のごとし。あるいは、静かな場所でうっかり交じり合っていこうとするような星回り。
金魚鉢の置いてあるような「時計屋」ですから、商店街の一角に昔からある、時計の修理なんかも請け負っているような個人店なのでしょう。
店内はきわめて静かであり、店主も寡黙。聞こえる音といったら、店の奥の壁にかかっている大きな古時計の秒針が刻むカチッカチッというかすかな音だけ。そして、おもむろに目をやった先に、やはり静寂そのものと化している金魚を見つけた訳です。
なんとなく、その金魚と目が合って、向かいあっているような感じがしたのかもしれません。時が止まったような店内において、鮮やかな赤を帯びて、よく見るとかすかに尾ひれがゆらいでいる金魚の存在は、どこか無視できないような存在感を放っていたはず。
それはさながら生きた「過去」そのものであり、忘れようとしても忘れさせてもらえない記憶が目の前に顕現したかのようでもあります。ふと気が付いて外に出てみたら、思っていた以上に時間が経過していたというウラシマ効果のようなことも起きていたのかも知れません。
8月5日にうお座から数えて「向き合うべきもの」を意味する7番目のおとめ座に金星が入ってゆく今週のあなたもまた、そんな無視できない過去や記憶と、時空をこえて邂逅してしまうような瞬間が訪れていきやすいでしょう。
他力に触れる
世の中の人はみな功績によって生きています。経営者であれ、絵描きであれ、時計屋であれ、みな生きている以上、この世に多かれ少なかれ功績を残すようなことをやっているし、その意味でこの世は功績でいっぱいです。
一方で、「功績は多い。だが人は詩人としてこの世に住んでいる」という詩を書いたヘルダーリンは、人はこの世で詩人として住んでいる。つまり、実用性や有効性の次元と違う生の次元に触れているじゃないかと歌っていた訳です。
生活と生存のための社会的地平は水平ですが、ヘルダーリンが言っているような詩的感性はそこに垂直に立ち上がってくるものであり、仏教ではそういう垂直的地平を「他力」と呼びます。それは人間が自分の力で支配できない次元、人間に対して贈られている次元であり、詩や詩的なものというのはそういう次元に人間を連れていってくれるんですね。
今週のうお座もまた、そういう垂直的な次元に触れているそのところで、自分もまた「菩薩」のようになっていけるかということがテーマとなっていきそうです。
うお座の今週のキーワード
仏に向かおうとする人間の根源的な在り方としての菩薩