うお座
すべてが滑稽であるがゆえに
生々しいせめぎあいの現場へ
今週のうお座は、動物のまなざしへの開かれ。あるいは、出会いや接近、ないし逃走を通して、人間中心主義的な世界を解体していこうとするような星回り。
夜道をひとり、なんとなく心許なく感じながら歩いているとき、目の前に突然何かが飛び出してくる。幽霊か?いや獣だ。暗闇に光る2つの目。思わず目が合う……。ただ、それはよく見たら猫だった。なーんだ……。ただ、その後しばらくして、その一瞬の邂逅(かいこう)こそが最近の他のどんな出来事よりも鮮明な印象を残していたことに気が付く―。
そんな経験をしたことはないだろうか。猫のところは、野良犬でもオコジョでもいい。ここで大事なのは、もしかしたら人間が支配する世界も、獣が支配する世界もないのではないかという考えです。つまり、「あるのはただ、移り変わり、かりそめの支配、機会、逃走、そして出会いだけ」かも知れないということ。
そう述べたのは、フランスの思想家ジャン=クリストフ・バイイであり、彼は『思考する動物たち―人間と動物の共生をもとめて―』という著書の中で、例えばラスコーの壁画に描かれたような、人間と動物との聖なる絆のネットワークにおいて「具現化されていたぞくぞくするような絆は、半透明になり、ほとんど消えつつある。だが、私たちが少しでも注意を払って、彼らが存在し、動いているのを見さえすれば、どの動物もみな記憶の保有者であることが分かるだろう。記憶とは、動物にも私たちにもあずかり知れぬものだが、そこには動物という種と私たち人間との軋轢が刻み込まれている」と書いています。
ここでバイイが語ろうとしているのは、人間から動物へ、動物から人間への侵犯についてではなく、そのわずかな接触からなる接近であり、そうした接近において起きてくる人間中心主義の解体について。そこで明らかになるのは、「私たちの生きている世界が他の生物たちから見られているということ」。バイイはさらに続けてこう結んでいます。
可視の世界は生き物たちの間で共有されている。そして、そこから政治が生まれるかもしれない―手遅れでなければ。
6月14日にうお座から数えて「政治的駆け引き」を意味する7番目のおとめ座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、そうした自分の作り上げた狭く小さな世界を脅かしてくれるような“動物的存在”との接点を作っていくことがテーマとなっていくでしょう。
バフチンの「カーニヴァルの笑い」
例えば、生真面目に積み上げられた公式文化に対立するものとして、ロシアの文芸批評家ミハイル・バフチンは民衆的な笑いを非公式的な民衆文化の本質なのだと指摘しましたが(桑野隆『バフチン』)、そうした意味での<笑い>とは一体どんなものだったのでしょうか。
それはカーニヴァルに代表されるような祝祭の場に見られるような笑いであり、バフチンはその特徴として次の3点を挙げました。
①皆が笑う
②皆が笑われる
③アンビヴァレントである
すなわち、皆が笑いもすれば笑われもするのが民衆的な笑い、カーニヴァルの笑いであって、そこでは一個人が滑稽なのではなく、世界全体が滑稽であるがゆえに笑うのです。
それは陽気な歓声をあげる笑いである一方で、愚弄する嘲笑でもあり、そうであるからこそ民衆は「生成途上にある世界全体からみずからを除外」せず、民衆もまた「未完成であって、やはり死に、生まれ、更新される」ことができるのだと。そうしてバフチンが「近代の風刺的な笑い」と区別したこの極めて民衆的笑いは、人間を「否定しつつ肯定し、葬りつつ再生させる」のだ述べています。
今週のうお座もまた、もしチャンスがあるならば、そうした祝祭的でアンビヴァレントな笑いの中にみずからを投げ込んでみるといいでしょう。
うお座の今週のキーワード
笑いもすれば笑われもする