うお座
大雨の広がりと一滴の重みと
いろいろのたましい
今週のうお座は、『栃木にいろいろ雨のたましいもいたり』(阿部完市)という句のごとし。あるいは、自他の境界線をはみだして中身が広がっていくような星回り。
栃木県は全国的に見ても夏のあいだ積乱雲や雷が発生しやすい地域であり、栃(とち)の木は熱帯雨林をルーツとする落葉樹で、その実は縄文時代の遺跡からも頻繁に出土するらしい。
しかし、たとえそんな背景知識について知らなかったとしても、「栃木」と「雨」、そして「たましい」という言葉同士の共鳴には、季語としての定義や効用をはるかにつきぬけたところで、心の深い部分に訴えかけてくるものがあるのではないでしょうか。
雨の日、ふっと雨の音に耳を澄ませていると、その一音一音に「雨のたましい」が宿っているように感じられ、かつ、それらが一つひとつ異なる音色をもっていることに気付いて、自分も含めた「いろいろ」な事物にも「たましい」があるのだと、作者は今さらながら思い知ったのかも知れません。
それは抽象的な観念をこねくり回して出てきた妄想というより、やはり鮮やかな緑と湿った大地の重量感とそこに降り注ぎ、しとどに濡らす雨音の聴覚体験という基盤がそろって初めて到来しえたインスピレーションであったはず。
6月6日にうお座から数えて「心的基盤」を意味する4番目のふたご座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、なるたけ自身の「たましい」がいきいきと踊り出しそうになるような基盤に依って立っていくべし。
2つの自己認識の重なり
現代の日本人は「死んだら無になる」という死生観が多く語られますが、それは単に近代科学的・物質的な考え方から出てきている訳ではなくて、ある種の無常感や死生観から出てきているようにも思えます。例えば、志賀直哉が晩年につづった次のような短文。
人間が出来て、何千何万になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生れ、生き、死んで行った。私もその一人として生れ、今生きているのだが、例えて云えば悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前にもこの私だけで、何万年溯っても私はいず、何万年経っても再び生れては来ないのだ。しかもなおその私は依然として大河の水の一滴に過ぎない。それで差支えないのだ。(『ナイルの水の一滴』)
ここには2種類の自己認識が語られていて、ひとつは自分は数えきれない人間の生き死にによって生じる「悠々流れる大河の一滴」に過ぎない、というもの。もうひとつは、しかしその一滴は「後にも前にもこの私だけ」だという一回限りの唯一無二だという自己認識です。
少なくとも、恩師である漱石の訃報に触れて書かれたともされるこの文章を書いたとき、志賀の頭にはそういう「一滴」は決してむなしいものではなく、それ自体意味のあるものという確信があったのではないでしょうか。
その意味で、今週のうお座もまた、自身の死生観をまざまざと浮き彫りにさせていく機運が高まっていくことでしょう。
うお座の今週のキーワード
何かを尊いと感じられる場所に「おのれ」を置いていくこと