うお座
悲しみよ、こんにちは
心身一如
今週のうお座は、手の区別を超えて響き渡る拍手の音のごとし。あるいは、「悲」の深まりを通じて自由になっていこうとしていくような星回り。
仏教学者の鈴木大拙にはある有名なエピソードがあります。欧米で禅の思想を広める際、聴衆の前で両手で柏手をうち、その音が右の手の音か左の手の音かをたずねて煙に巻いたというものです。
これは大拙が日本人のこころを「霊性」という言葉で捉えたことと深く関係しており、地に足のついていない精神主義に陥らず、なかなか言語化しにくい心身一如(いちにょ)の在り様を巧みに指しているように思います。
彼は無心ということの真の意味も、宗教的なものの神髄も、そうし抽象的な概念を突き破ったところにある「云ふに云われぬ不思議」に求めていきましたが、返す刀で智(理性)の世界に収まりきらないその外側に慈悲の世界があって取り囲んでいることをすっかり忘れてしまった現代人を、『人間本来の自由と創造性をのばさう』という随筆の中で、次のように批判してみせました。
智は悲(慈悲)によつてその力をもつのだといふことに気付かなくてはならぬ。本当の自由はここから生まれて出る
少し考へてみて、今日の世界に悲―大悲―があるかどうか、見てほしいものである。お互ひに猜疑の雲につつまれてゐては、明るい光明が見られぬにきまつてゐるではないか
こうした見地から最初に述べたパフォーマンスを振り返ると、それはまるで合理的理性の作り出した「猜疑の雲」を晴らすべく相応の覚悟を抱いてとり行われた行為であったことが分かってくるはずです。
3月20日にうお座から数えて「等身大の身体性」を意味する2番目のおひつじ座で春分(太陽のおひつじ座入り)を迎えていく今週のあなたもまた、もし自身を通じて少しでも世界を明るくしていきたいのならば、頭でそれを考えたり伝えていこうとするのではなく、まず悲(慈悲)を込めた実際の行為を通して指し示していくことがテーマとなっていくでしょう。
旅人オーウェルの垣間見たもの
ここで思い出されてくるのが、ジョージ・オーウェルのデビュー作である『パリ・ロンドン放浪記』です。原著は1933年刊行。1年ほど戦間期のパリの貧民街やロンドンで浮浪者として過ごした記録なのですが、その中で彼は高級ホテルの皿洗いに身をやつしながら丹念に人間観察を続け、社会の底辺に置かれ虐げられた人間の心理状態を探っていくのです。
その結果、著者は「弱い人間ほど支配者に隷従する」と見破っていく。立場の弱い人間ほど、従順であることにプライドを見出していくのだ、と。このあたりは16世紀フランスの夭逝した天才ラ・ボエシが「臆病と呼ばれるにも値せず、それにふさわしい名が見当たらない悪徳」と呼んだものと通じています。
つまり、多くの人が苦しみの根源とするような圧政とか暴力的な支配というものは、支配者=加害者の悪辣さや非道さや、そのおこぼれにあずかる取り巻き連中によってだけでなく、支配される側の「自主的隷従」に支えられて初めて成立していくのだという話で、これは現代の日本社会においても会社や学校、家庭などで今なお広く見出される現実なのではないでしょうか。
今週のうお座もまた、ふだんなら見過ごしがちな抑圧や足かせに対していつも以上に反発を覚えやすかったり、それをひっくり返したくなっていくはず。
うお座の今週のキーワード
自主的隷従の悲しみ