うお座
ここではないどこかへ
狂うことくらいなんでもない
今週のうお座は、『月と六ペンス』に登場する画家のごとし。あるいは、狂気に陥るきっかけと、ひょんなところで出会っていくor出会っていることに気付いていくような星回り。
サマセット・モームのこの小説は、主人公である「私」がひょんなことから40過ぎの冴えない画家と出会うところから始まります。彼はロンドンで何不自由ない生活を送っていたのに、ある日突然、失踪してしまいます。そして、後日になってそれが「絵を描く」ために何もかも捨てたためだというのです(ゴーギャンがモデルと言われている)。
彼は芸術のために人生ががたがたに狂ってしまってもまるでお構いなしなのですが、一体そうまでして、なぜ絵を描かなければいけないのか。
彼が色や線に固有の価値を置いているのは間違いない。駆り立てられるようにして自分の感じたものを伝えようとしている。そのためだけに、独自の色彩や描線を創り出したのだ。追い求める未知の何かに近づくために、なんのためらいもなく対象を単純化し、歪めた。事実などどうでもいい。なぜなら身の回りにあふれる瑣末な事象の奥に、自分にとって意味があると思えるものを探し求めていたからだ。まるで、宇宙の魂に触れ、それを表現せざるを得なくなったかのように。
そう、一度触れてしまったら、もう後には戻れなくなる。そんな体験が人生には確かにある。そして、素晴らしい芸術というのは、そこに深く魅入られた天才たちの、他のすべてを犠牲にせんとするほどの努力によって初めて成り立つものなのではないでしょうか。
美とは、芸術家が世界の混沌から魂を傷だらけにして作り出す素晴らしいなにか、常人がみたこともない何かなんだ。それもそうして生み出された美は万人にわかるものじゃない。美を理解するには、芸術家と同じように魂を傷つけ、世界の混沌をみつめなくてはならない。
作るのも、見るのも、生半可では許されない。ちょっとやそっと狂わされるだけではなく、自分から狂いに行くくらいでなければダメなのだ。おそらく、著者のサマセット・モームもまた、小説の世界でそうした狂気に親しんでいたのでしょう。
そして3月4日にうお座から数えて「ロールモデル」を意味する10番目のいて座で下弦の月(意識の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、自分がこれはと思ったことなら何であれ、そのために狂うことくらいなんでもないのだという、この著者や画家の腹の括り具合を見習っていきたいところです。
大渦に飲み込まれる船のごとく
ここで思い出されるもう一つの作品に、エドガー・A・ポーの『メエルシュトレエムに呑まれて』という短編小説があります。
これはノルウェー海岸のひとりの漁師が予測できなかった風に煽られて船もろともメエルシュトレエムと呼ばれる巨大な渦の中に巻き込まれ、奇蹟的に助かりはしたが、わずか数時間で髪が真っ白になり老人のような見た目になってしまったという海難話なのですが、その体験にはどうも恐怖だけでは割りきれない“何か”があったと言うのです。
月の光は深い渦巻の底までも射しているようでした。しかしそれでも、そこのあらゆるものを立ちこめている濃い霧のために、なにもはっきりと見分けることができませんでした。その霧の上には、マホメット教徒が現世から永劫の国へゆく唯一の通路だという、あのせまいゆらゆらする橋のような、壮麗な虹がかかっていました。
船の高さの数十倍もの大渦に、木の葉のように揉みしだかれ飲み込まれていく船の姿が、ここではまるで深い深い羊水の海の底に潜っていく胎児のように思われるのと同時に、やはり底知れぬ恐怖や不安と同居して、時が歩みを止めてしまったかのような楽園の平安が温かく漂ってはいないでしょうか。
今週のうお座もまた、そうしたおっかなくはあるけれど、求めてやまない体験の方へ、おのずと引き込まれていくようなところが出てくるはずです。
うお座の今週のキーワード
孤独ではあるが他者に侵されない安逸に