うお座
のびのび無関心
俳句の世界の隠し玉
今週のうお座は、『枯るる貧しさ厠に妻の尿きこゆ』(森澄雄)という句のごとし。あるいは、華やかに大々的に遊ぶのではなく、人知れず黙々と遊んでいくような星回り。
一見すると自身の暮らしの貧しさやみすぼらしさを克明に描き出した一句。だとすると、エロティックではあっても、まったくロマンティックではない世界がここに現れている訳だが、果たしてそれだけだろうかという気もしてくる。
それは「枯るる貧しさ」という妙な言い方が、どこかひっかかるから。これは「枯るる」という冬の季語をとってつけてできた形容詞的な表現で、どこか不格好な感じがするが、しかし発想を逆転させて、「枯るる」が主体だと考えてみると、少し違った景色が見えてくる。
すなわち、作者はこの慎ましい住処で、目に入るものすべてを枯れ果てた冬の山中と見なしていたのではないか。そんな想像のさなかにいたとき、ふっと奥さんがトイレに入っていった。そうして水の音が聞こえ始めた。それはなんとも深遠幽谷な響きであった。
そんな日曜ドキュメンタリーの裏で、水墨画の世界に遊んでいるような、ダブルミーニングさこそが、おそらく掲句の本質なのではないか。
その意味で、1月21日にうお座から数えて「隠れ家」を意味する12番目のみずがめ座へと冥王星が移っていく今週のあなたもまた、そんな“隠し玉”のようなプレイを存分に楽しんでみるといいだろう。
そっと自分を引き戻す
例えば松尾芭蕉の紀行文学の傑作である『おくのほそ道』には、大きな栗の木の下で庵をむすび、俗世間を避けるように暮らしている僧・可伸(かしん)という人物のことを思って芭蕉が詠んだ「世の人の見付けぬ花や軒の栗」という句が出てきますが、これなども、ある意味で「隠し玉」という言葉を想起させるものと言えます。
というのも、栗の花というのは桜のように多くの人々に愛でられることもなく、またその独特の臭いからむしろ人々から嫌われ、避けられている不人気な花です。けれど、見方を変えれば、そうすることで人々から距離をとって、静かに生きており、芭蕉にとっての可伸の魅力はそこにあった訳です。
私たちの中には、どうしても人に自分を認めてもらいたいという欲望が渦巻いており、そのことを認められずにいればいるほど、欲望に自分がとらわれてしまうところがあります。けれど、栗の木はそれに無関心で、のびのびと自分の花を咲かせている。
今週のうお座のテーマもまた、そんな可伸の生き方に学んだ芭蕉のように、自分を欲望の渦から引き離していくことにあるのだと言えるかも知れません。
うお座の今週のキーワード
「枯るる」が主体