うお座
快楽の海に溺れる
フットライトはいらない
今週のうお座は、カーニヴァル的な生のただ中へ。あるいは、自己演出やブランディングなどは脇に置いて、より直接的で生々しい実感へとダイブしていこうとするような星回り。
私たちは日々何かを食べていますが、考えてみれば飲み食いというのは世界との相互作用における暴力性や未完成性の最も直接的かつ明瞭なあらわれに他ならない訳ですが、この点について、ロシア文化学者の桑野隆は「カーニヴァル」という語を用いて人々が「新しい、純粋に人間的な関係のためにまるで生まれ変わった」かのような体験をしていくことを分析したバフチンの思想を次のような箇所から紹介しています。
カーニヴァルには演技者と観客の区別はない。カーニヴァルには、たとえ未発達の形式においてですらフットライトなるものは存在しない。フットライトがあれば、カーニヴァルはぶちこわしになろう(逆にフットライトをなくせば、演劇的見世物はぶちこわしになろう)。カーニヴァルは観るものではなく、そのなかで生きるものであって、すべてのひとが生きている。というのも、カーニヴァルはその理念からして、全民衆的なものだからである。(『バフチン』)
さらに、バフチンがカーニヴァルの特徴として、誕生と死、祝福と呪詛、称賛と罵言、痴愚と英知、青春と老年、顔と尻、上と下など、対をなすものの逆転や転覆などのコントラストに満ち溢れていることに着目していたことを強調して、桑野は「カーニヴァルは交替するものではなくて、交替それ自体、つまり交替というプロセスそのものを祝う」のだと述べ、そこに消化と排泄といった内臓のイメージを重ねていきます。
これは身体のトポグラフィーの中心であって、上と下がたがいに移行しあっている。(中略)このイメージは、殺し、生み、食いつくし、食いつくされるアンビヴァレントな物質的・身体的下層にとってお気に入りの表現であった(同上)
11月27日にうお座から数えて「生の基盤」を意味する4番目のふたご座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、自身のさまざまな「むさぼり食い」を通して、そこにいかなる「交替のプロセス」が進行しつつあるのか、改めて感じ直してみるといいかも知れません。
「覗く人」としてのボードレール
かつてベンヤミンはボードレールの代表作を取りあげて「武器庫としての『悪の華』」と書きましたが、例えばその中の『香水の壜』という詩をここに引用してみましょう。
どんな物質(もの)にも気孔(きこう)があると思われるほど強力な
匂ひがあつて、ガラスさえ透してしまふと人は言ふ。
錠前が錆びて軋んで 痛さうな音(ね)をあげながら
東洋渡来の小匣(こばこ)の蓋(ふた)が 開けられた時とか、或は、
住む人もない廃屋(あばらや)で、歳月の黴くさい臭ひに満ちた
埃の積もつた眞黒な 衣装箪笥を開けた時、
時をり人は 昔の壜を見つけ出す。思出が詰められてゐる
その中から 魂が蘇つて来て 生き生きと 迸り出る。
ボードレールはかつての体験をずっと後になってから加工していく詩人であり、その原稿は推敲につぐ推敲で嵐のようにごった返しており、いったい何度加筆の手を入れたのか分からないほどだったと言います。
そうして彼は記憶の中の「廃屋」の引き出しに封じられた「思出」をこれでもかと覗いては、事物どうしの化学反応においてよみがえる悪を昇華して、あえて精神の「苦味」のもたらす快楽に溺れていきました。同様に、今週のうお座もまた、自分なりの「衣装箪笥」や「昔の壜」を見出して大いに精神を昂ぶらせていきたいところです。
うお座の今週のキーワード
脳髄の祝祭という時間を生きる