うお座
あえてやめる練習
ゼロを掛ける
今週のうお座は、「無」の発想を取り入れていくよう。あるいは、操作の取り消しの感覚を実践的に磨いていこうとするような星回り。
中国哲学を専門とする中島隆博は、哲学者マルクス・ガブリエルとの対談のなかで、量子力学やひも理論の根底にあるような東洋的な発想について次のように喩えています。
「穴」や「窓」や「器」といった外に開かれたものが出てくる底がある。つまり、物の背景自体は物ではない。このことに気付くと、物と思われるものも物ではない、つまり「無」であることがわかる。(『全体主義の克服』)
そして、これがニュートンやカントのように、現実=実在というものを何らかの自然法則に支配された沢山の点のようにして確かに存在するものの集合だと考えると、「無」というものが物のもっている安定性を得てしまう訳ですが、これは誤解なのだということを、3世紀の中国の哲学者である王弼(おうひつ)を引いてさらにこう言及してみせるのです。
たとえば『老子』第六章に「谷神(こくしん)は死なず。これを玄牝(げんぴん)という」という一節があります。これに対し王弼は「谷神は、谷の中央にあり無谷である。それは影も形もなく、逆らうことも相違することもなく、低い位置にあって動かず、静かさを守って衰えない」と注釈をつけています。(中略)ここで王弼が考えているのは、特定の谷に物が存在すると考えてはいけないということです。
つまり「無」とは、物と無とを分ける二元論ではなくて、物以前に働くものであり、中島はそれを王弼にならって「一種の取り消された働き」とか「何らかの操作の取り消し」と呼んでいるのですが、それこそまさに今のうお座に必要な発想であるように思います。すなわち、物事の終わらせ方を感覚的につかむには、無の中にきちんと根を下ろしていかなければならないのです。
同様に、8日にうお座から数えて「反復」を意味する3番目のおうし座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、どうしたら世俗的な決定論だったり、それを基礎づけている近代合理主義的な思考を乗り越えていけるかということが、改めてテーマとなっていくでしょう。
「~しないでいられる能力」の行使
たとえば哲学者のジョルジョ・アガンベンは、あらゆる創造行為には、何か表現すること/されることに対する抵抗や反発が含まれている、ということを書いていました。
それは創造性というものが、潜在的なものの顕在化をただ盲目的に目指す「~する能力」の度合いにおいてではなく、むしろ「~しないでいられる能力」の行使をいかに盛り込んでいけるかという文脈においてはじめて発揮し得るのだということでもありました。
アガンベンは、同様のことを「センスのない人は、何かするのを控えておくことができない」(『創造とアナーキー―資本主義宗教の時代における作品―』)というもっと端的な言い方でも表していましたが、すぐれた画家ほどキャンバスの前で手の震えや迷いを感じたり、時にはほとんど完成しかけていた作品を破棄してゼロからやり直すことを厭わないものであり、それは迷いなくおのれのビジョンを猛然と絵に刻みつけていくことや、作品を完成し発表するところまでこぎつけることと同じか、それ以上に大切なことなのかも知れません。
その意味で、今週のうお座もまた、「~せずにはいられない」「必然的に~する」と感じていることほど、それをいかに差し控えたり、ゆらぎや偶然性を与えていけるかが問われていくでしょう。
うお座の今週のキーワード
大胆で残酷なゼロを