うお座
ふらふらとドスンのはざまで
旅の出発点としての「汝自身を知れ」
今週のうお座は、ソフィストに対するアンチテーゼとしてのソクラテスのごとし。あるいは、黙ってドスンと自分自身に坐りこんでいこうとするような星回り。
一般にソフィストは単なる詭弁家と誤解されがちですが、実際には各方面の教養や最新の学識をもち、人の世の道にも通じた当世一流の知識人たちでした。ただし、「世界や生を、人間という間尺で解釈する立場」に立って、「人間の関心や生存を中心にして、非知・無関心のこの自然や世界を切断する」点で、ソクラテスとは立場が異なっていたのであり、まさにその点においてソクラテスは哲学の祖となった訳です。
つまり、この宇宙の人知や道徳を超絶した中立性(無関心)や、その根本的な分からなさ(非知)を半ば無自覚に認めていなかったことにこそ、ソクラテスは頑として対抗し、「汝自身を知れ」を自身の真理探究の出発点としたのです。例えば古東哲明は、その意味するところについて以下のように述べています。
意識主体(自我、理知的主観)を可能にし裏づけながら、そんな主体の専制を同時に脅かすような両義性をもつのが、「汝自身」。反省し意図し意識するぼくたちの顕現的な自己性(理知性)というものが、いつもすでにソレに先を越されており、しかもソレに支えられているのが、汝自身(自己)というもの。だから原理的に意識主体(顕現的自己)には収まりがつかない自己自身。(『現代思想としてのギリシア哲学』)
ソクラテスの問答とは、そんな「非知で、意識下の、不断に人間的理知や意志や対象化の作用から逃れていく」ようなリアリティへと沈黙とともに連れ出していくための術だったのです。
7月10日にうお座から数えて「実存」を意味する2番目のおひつじ座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、意識を呑み込む無意識や生きられた身体性の位相へと、どれだけ自身のたましい=実存姿勢を向け変えていくことができるかが試されていきそうです。
魂の彷徨
自分自身と仲直りするために、人はしばしば旅に出ます。そしてそういう旅に、ほんらい目的地は要りません。自分自身が目的地だからです。詩人としての池澤夏樹がナイルやギリシャへの長い旅から帰ってきた後に上梓した詩集『最も長い河に関する省察』もまた、そうした旅の記録であると同時に、自分自身の魂のあり様をめぐる省察にもなっています。
ギリシャの山野を自転車で駆け抜け、わけのわからないナイルをどこまでも遡行(そこう)し、「たとえば砂漠が匂わない」ことを発見する日々のなかで、この詩人もまた毎日どこかに座り込んでは黙々とことばを磨いていたのでしょうか。
日々の決算は就寝と共に済み
翌日は新しい荷だけを載せて
彩雲の中に帆を張って現れる
聖なる驢馬がその到来を告げ
冷たい磁器の薄明がひろがる
(輪行記)
5行すべてが能動態の動詞で終わるこの一節は、詩人がことばとともに熟していった証しであり、新たな生きる理由ともなっていったはず。今週のうお座もまた、どこかでそんな魂の行き来を体験し、それを自分なりの言葉で紡ごうとしているように思います。
うお座の今週のキーワード
自分自身が旅の目的地