うお座
贈与の輪をまわすには
愛と労働
今週のうお座は、「そこに愛はあるんか?」というひと声のごとし。あるいは、ひそかに愛の証明を試みていこうとするような星回り。
19世紀中頃、まだ青年期にあったカール・マルクスは、当時勃興しつつあった資本主義を批判しつつ、労働の意味を肯定的に捉えなおそうとした『経済学・哲学草稿』という論考の中で、次のように書いていました。
もし君が相手の愛を呼びおこすことなく愛するなら、すなわち、もし君の愛が愛として相手の愛を生み出さなければ、もし君が愛しつつある人間としての君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君は無力であり、一つの不幸である
ここで論じられているのは、「どうしたら自分が誰かに与える愛情に正当性が確認できるか」という話であり、それは誰かへの愛が正当であると感じられるのは、その誰かが自分からただ愛を受け取るだけでなく、みずからもまた誰かに愛を与えるようになった時に他ならないのだ、とマルクスは言っている訳です。
そして当然、このマルクスの考えをさらに敷衍(ふえん)するなら、おそらく一度たりとも少しの愛情も受けとったことがない人はおそらくいないでしょうから、人間は誰しもが人生を通じて、他の誰かによって自身の愛情の正当性が証明されるのを待っていると同時に、自分に愛情を与えてくれた人たちの愛の正当性を能動的に証明していくためにも存在しており、後者については、しばしば労働を通じて実現していくのだ、という風にも言うことができるのではないでしょうか。
その意味で、6月26日にうお座から数えて「出会いの神秘」を意味する8番目のてんびん座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、自分もまた誰かから愛を受け取ってきたのだを思い出していくことを通して、逆に自分が決して無力な存在ではないのだということを再確認していくことがテーマになっていくでしょう。
熊撃ちの美学
人はほんらい、狩られるべき獣に殺され、喰われることだってありうる立場の存在です。本当の意味で海や山と共に生きてきた人は、そのことをよく分かった上で、わが身をときに自然に贈与することと引き換えに、獲物を得ている。ひるがえって、そうした営みからすっかり遠く離れてしまった私たちはどうでしょうか。
大いなる自然の食物連鎖など知らぬ存ぜぬと言わんばかりに、金銭で獣や魚の肉を買い、安全な場所で食らう。もちろんそれは町にいれば当然のことではあるのですが、自然の循環から遠く離れたところで、狩られた野生のいのちではなく、屠(ほふ)られた家畜の成れの果てを吸収し続けていれば、労働を通じた愛の証明など発想すらしなくなってしまうのも、当然の成り行きではないでしょうか。
ある狩人は、「忍び撃ちは卑怯だ」と語ったそうです。数百メートルも離れたところから、ライフル銃で熊を撃つことを指して、ぽつりとそう言ったのである。彼らの中には、自分たちがまず自然からの純粋贈与をすでに受けとっており、そこでは人間側も何らかの贈与に与することなしには、いのちの循環は成立しないという発想が息づいているのでしょう。
今週のうお座もまた、自分が何らかの贈与に与することができるフィールドを見つけていくこと、そしてそこに実際に体を張って立っていくことを意識していくべし。
うお座の今週のキーワード
自分は決して無力な存在ではないのだいう感覚