うお座
溜まり溜まった意味を排泄する
ポップに区切ろう
今週のうお座は、「生きる力の丸薬」としての辞世の句のごとし。あるいは、ユーモアと脱力感を添えてみずからの人生に一区切りつけていこうとするような星回り。
辞世の句というと、どうしても切腹前の武士のごとき厳粛な空気がセットで思い浮かぶ人も多いと思うのですが、1997年に蝸牛社から刊行された『一億人のための辞世の句』では、「日常の連続の中の辞世の句」「楽しい辞世句」というコンセプトで公募して集まった多くの句が収録され、辞世句の新しい可能性が示されました。しかし、どうしてこんなことが可能になったのか。編者で俳人の坪内稔典は「あとがき」に次のように書いています。
辞世句を<楽しい>と表現するのは変かもしれないが、俳句には深刻なことでも軽くはっきりと表現する力がある。(…)この力のために辞世句におのずとユーモアやゆとりが漂う。そしてそれられは私たちの生きる力になる。辞世句は生きる力の丸薬だ。
この力の源は俳句形式の短さにある。俳句の短さは感傷や詠嘆を許さない。(…)俳句形式の短さはは、そのような気分の持続に向かず、気分を瞬間的に表現してしまう。その表現は露出というか、剥き出しというか、ともかく一種暴力的だ、突発的だ。
喜劇王のチャップリンはかつて「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇だ」と言いましたが、俳句の形式を借りた辞世句というのも、いつも間近すぎて意識できない自分の人生を、思いきって遠くへ押しやってみることで得られた一瞬の光景であり、その時どきの人生に付されたエンドロールの疑似体験のようなものなのかも知れません。
6月18日にうお座から数えて「一つの終わり」を意味する4番目のふたご座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、自分のこの世への執着を見つめ直す意味でも、ユーモアを忘れずに辞世句を詠んでみるといいでしょう。
自己を規定しなおす
例えば、風邪をひいて寝込んでしまうといったことも、一区切りへ向けた身体側の取り組みと言えるかもしれません。頭はボーっとして、効率性や生産性は著しく落ち、なんだか世界の蚊帳の外に置かれてしまった気分になる。お医者さんは、発熱は体に入ったウイルスを免疫が撃退している証拠なのだと言いますが、これは一体どういうことなのでしょうか?
しかし、ここではっきりしたことは、個体の行動様式、いわば精神的「自己」を支配している脳が、もうひとつの「自己」を規定する免疫系によって、いともやすやすと「非自己」として排除されてしまうことである。つまり、身体的に「自己」を規定しているのは免疫系であって、脳ではないのである。脳は免疫系を拒絶できないが、免疫系は脳を異物として拒絶したのである。(多田富雄、『免疫の意味論』)
脳みそはしょせん身体の一部に過ぎません。蝕まれたり、変更を余儀なくされたり、たえず「免疫というスーパーシステム」の中で調整され、変化しながらそこにある。その一方で免疫というのは、自分のごく一部分を整えたり組み立て直したりしているだけでなく、新しい部分や要素そのものを創り出しながら自己組織化していくのだそう。
つまり、自分ではないものを通して、たえず新しい自分を創り続けているのが免疫であり、その意味で辞世句とは、免疫の働きと脳みその機能とのギャップをつなぐために思わず漏れ出た独り言のようなものなのかも知れません。同様に、今週のうお座もまた、できるだけ脳みそを休ませて、免疫の働きに身を任せ、促していきたいところです。
うお座の今週のキーワード
エンドロールの疑似体験