うお座
循環と刷新
私“が”と、私“を”の区別
今週のうお座は、メルロ=ポンティの「絡み合い」のごとし。あるいは、何か誰かと関わるほどに自己の外へと連れ出されてしまうような星回り。
メルロ=ポンティは『見えるものと見えないもの』の中で、われわれは触れるという行為のなかで必ずや触れられているのであり、われわれはある意味で、働きかけられることなしに働きかけることはできないのだと強調した上で、諸関係の集合としての身体性をめぐって次のように述べていました。
それは二つの実体の結合ないし合成ではない。そうではなく、肉はそれ自体で思考可能なものである。ただしそのためには、見えるものとそれ自身との関連があって、それが私を貫き、私を見る者として構成しなければならないのだが、この循環は私が形成するものではなく、私を形成するものでって、このように見えるものが見る者に巻きつくこと(enroulement 巻き取りwinding)が、私の身体と同様に他の諸身体をも貫き、それらを賦活するのだ。
私たちは、他者や対象との微に入り細を穿つような「絡み合い」を通じて、活力を与えたり与えられたりしていく訳で、とりわけメルロ=ポンティがそうした循環は、私“が”作り出しているものではなく私“を”作り出すものであるという区別は、蛇が脱皮するように自分自身を新たに更新しつつある今のうお座の人たちにとって特に重要であるように思います。
25日にうお座から数えて「自己刷新」を意味する9番目のさそり座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、見る身体への見えるものの巻きつきであり、触れる身体への触れうるものの巻きつきということを、文字通り体感していくことができるはず。
旅人オーウェルの垣間見たもの
1933年に刊行されたジョージ・オーウェルの『パリ・ロンドン放浪記』は、1年ほど戦間期のパリの貧民街やロンドンで浮浪者として過ごした記録作品なのですが、その中で彼は高級ホテルの皿洗いに身をやつしながら丹念に人間観察を続け、社会の底辺に置かれ虐げられた人間の心理状態を探っていきました。
その結果、著者は「弱い人間ほど支配者に隷従する」ことを看破していきます。立場の弱い人間ほど、従順であることにプライドを見出していくのだ、と。このあたりは16世紀フランスの夭逝した天才ラ・ボエシが「臆病と呼ばれるにも値せず、それにふさわしい名が見当たらない悪徳」と呼んだものと通じています。
つまり、圧政とか暴力的な支配というものは、支配者=加害者の悪辣さや非道さや、そのおこぼれにあずかる取り巻き連中によってだけでなく、支配される側の「自主的隷従」に支えられて初めて成立していくのだという話で、これは現代の日本社会においても今なお広く見出される現実なのではないでしょうか。
今週のうお座もまた、自らの手と足を通して見出した真実を通して、知見を刷新してみるといいでしょう。
うお座の今週のキーワード
くびきをひもとく