うお座
幻滅と幻想のはざまで
歪みと芸術
今週のうお座は、『かすかなる真珠の歪み寺山忌』(小林貴子)という句のごとし。あるいは、いびつな形をこそ芸術へと昇華していこうとするような星回り。
寺山修司が死んだのは1983年5月4日で、その忌日は毎年夏の訪れとともにやって来ます。つぶらな真珠の「かすかなる歪み」は、新緑に映えた虹色の光彩を帯び、それこそ言わば、「何しろ、おれの故郷は汽車の中だからな」とうそぶく寺山の表現してきた屈折した青春性に捧げられた祈りのごとき表象なのでしょう。
均整と調和のとれたルネサンス様式に対し、自由な感動表現、動的で量感あふれる装飾形式が特色の「バロック」という言葉の語源もまた「歪んだ真珠」でしたから、寺山の芸術全体をそういうものとして捉えようという含みもあるはずですが、それもまた乱反射する光線のうちのあくまで1つに過ぎません。
さながら万華鏡のように、見る度に模様の変わるのぞき穴として寺山は存在し、おそらく何かに幻滅した作者に、別の新たな幻想を与えたのかも知れません。そして、そうした万華鏡においては、単に整っていることよりも、いびつさや歪み、奇形や欠損こそが、変幻自在でいきいきとした様々な模様をつくりだすきっかけとなるのです。
同様に、16日にうお座から数えて「あこがれ」を意味する9番目のさそり座で満月を迎えていくあなたもまた、自身の屈折や鬱屈からいかに煌びやかな模様を創り出していけるかにトライしていくべし。
フランシスコ・ザビエルとアンジロー
歴史学者・村井章介の『世界史の中の戦国日本』という本の中で、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが日本に向かっているとき、途中、かなりアジア人に絶望していたことが手紙から分かったという話が出てきます。
彼らはイエズス会の船団を立てて、自前で航海していた訳ではなく、当時のシナ海交易ルートで中国人の船に乗っかって移動しており、彼らは途中であちこちに寄り道するし、よい託宣が得られないと航海を延期するといったことが当たり前だった訳ですが、それはザビエルたちにとって迷信深い愚かな行動としか映らなかったのでしょう。
そんな中、マラッカで初めて会ったまともなアジア人がアンジローという日本人で、彼はとても好奇心が強く勤勉で、ポルトガル語も8カ月あまりで覚えてしまうなど、才能に優れていたため、ザビエルは日本で布教することを思い立ち、そこに希望を託したのです。
ただ、実はアンジローには薩摩で殺人を犯して海外へ逃げてきたという過去があり、後にザビエルが薩摩を経由して京都へ旅立った際、鹿児島での布教をアンジローに委ねたにも関わらず、本人は鹿児島から姿を消して海賊になっていったりと、かなり危ういバランスの上で成り立った関係であり、一時的にたまたまよい方向へ転がっただけとも言えます。
しかし、これもまた一種の万華鏡体験と言えるのではないでしょうか。その意味で、今週のうお座にとっても、普通ならケチのつく関わりや避けるべき相手とこそ手を結んでみることも大切になっていくはずです。
うお座の今週のキーワード
万華鏡体験