うお座
立ち止まって仮面を外す
「偉大なる普通人」の仕事
今週のうお座は、自分の「顔」をあらわにした黒澤監督のごとし。あるいは、ごく普通の人間として為すべき当たり前のことを為していこうとするような星回り。
作家の塩野夏生は、戦後50年の節目にあたる1995年に発表された『反省という行為』というエッセイのなかで、1991年に公開された黒澤明監督の『八月の狂詩曲』にふれつつ、第二次大戦の総括をずっと避け続けてきた日本人も、そろそろ自分たちの「顔」を見せてはどうかと提案しつつ、次のように述べました。
反省という言葉の意味には、自分をかえりみること、という意味の他に、自己の行為または意識について、善悪などの判断をくだす必要からよく観察すること、という意味もある。今われわれがしなければならないのは、この後の意味のほうの反省だ。
そして、黒澤監督という人は、実にノーマルな人であり、偉大なる普通人なのだと言い、その理由に「八十歳を越えたというのに、若者でももっているとはかぎらない素直さにあふれて」いる点を挙げています。つまり、そういう人だからこそ、ひとつの総括のあり方を美しい田舎の情景とともに描いた『八月の狂詩曲』のような作品も作れたのであり、それもやはり日本人として誰かが言わなければならなかったことを言い、覚えておかねばならない事実をそっと提示したに過ぎないのだ、と。
その意味で、5月9日にうお座から数えて「不可欠な調整」を意味する6番目の星座であるしし座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、塩野が指摘した意味での「反省」をみずからに課していきたいところです。
幻影と残滓
人間というものは例えどんなに洗練されているように見えたとしても、すべからく太古的なものを引きずっており、したがってその周囲(の人間関係)には、必ずどこかに醜悪で不気味な暗い影が差しているものです。
そうした隠れた側面をふとした拍子に垣間見た者は、わざわざさかしらに暴きたてるような野暮な真似までしないもでも、受け止めきれずに一方的な価値判断を加えてみたり、自分が見た悪夢を打ち消そうと完全な明るさに満ちた別の関係を夢見ていく傾向にありますが、それこそ私たちが乗り越えていくべき“幻影”の本質と言えるのではないでしょうか。
人はなぜ理性的でないのか。善のみ行わず、悪を為すのか。愚行を繰り返し、最善の意図を見失うのか。そして、なぜどこまでも自分に満足できないのか。今週のうお座は、改めてこうした問いに立ち返っていくきっかけを与えられているようにも思います。
うお座の今週のキーワード
正義と悪という二項対立を超えて