うお座
固い<わたし>がほどけゆく
距離をつめる/つめられる
今週のうお座は、「岨(そば)行(ゆ)けば猿に打たれる木実哉」(巌谷小波)という句のごとし。あるいは、自分は猿と作者のどちらの立場に立っているのか考えてみるべし。
「岨(そば)」とは山の切り立った斜面のこと。その歩きにくい場所をいくと、猿がいてなにやら威嚇してくる。それでもすすむのをやめないで猿に近づくと、猿が何かものを投げてきた。それが体にあたったので見てみると、木の実であった。
どこか童話や昔話のようなテイストの句ですが、よくよく考えてみると、木の実は猿が厳しい冬を越すために必死でかき集めてきた貴重な食料源であり、それだけ必死の威嚇行為だったはずです。
しかし、それでも作者が引き返すことはなかったのではないか。やはりどこか物語や夢のワンシーンのように、起こった出来事に反応はすれど、それを受け入れるのが当たり前のような雰囲気が掲句の底に流れているように感じます。
猿に共感はできなくても、その行為を受け止めていくことはできる。これは、人間同士においても話はそうは変わらないように思います。
27日にうお座から数えて「パートナーシップ」を意味する7番目の星座であるおとめ座で下弦の月(気付きと解放)を迎えていく今週のあなたもまた、いかに自分とはまったく異質な他者と共感ベースではない仕方で付き合っていくことができるかが問われていくはず。
「アイデンティティー」から「エイジェンシー」へ
ちょうどマルクスにとって「商品」が人間の労働の「沈殿物」であったように、ジュディス・バトラーにとってアイデンティティーとは言説行為の繰り返しを通じて事後的に構築された沈殿物であり、こういう過程的なあり方を行為に先立つ「主体」と呼ぶのはふさわしくないとして、それに代わる概念を行為体とか行為媒体と訳される‟エイジェンシー”と名付けました。
そこでは「主体が語る」のではなく、あくまで「言語が主体を媒体として語る」のであり、さらに「まったき能動性」でもなく、また「まったき受動性」でもない、言説実践が生起していく流動的で折衝的な「場」として、自分が自分であることを想定していこうとしている訳です。
となれば、そのような事態に「同一性(同じであることや一貫性)」を含意するような呼び名(自己同一性=アイデンティティー)を与えることは、もはや論理矛盾とさえ言えるのではないでしょうか。
今週のうお座もまた、青ざめた金太郎飴のように終始一貫している自分自身を、複数の異なるそれの緩やかな連合態へとほどいていくことがテーマとなっていきそうです。
うお座の今週のキーワード
蝶の群れのように在る<わたし>