うお座
転換的な言語感覚
道化の星
今週のうお座は、芭蕉の目指した「かるみ」のごとし。あるいは、滑稽の道、笑の道をこそ極めていこうとするような星回り。
松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅から戻った最晩年に目指した「かるみ」の境地とは、たしかに俳諧における言葉の使い方の問題であると同時に、それだけに留まらず心の持ちようの問題であり、この世での在り方の問題でもありました。
若いうちは誰しもが人生にはいいことがたくさんあるに違いないと信じている訳ですが、長く生きていると、どうも様子が違うことに気付き始め、自分の見に起きた不幸や、理不尽な境遇を嘆いて、自分ばかりがこんな目に遇わされていると、心のどこかで思い込むようになる。
それが「かるみ」の対極において、芭蕉が「おもみ」あるいは「おもくれ」と呼んだものであり、逆に「かるみ」の発見とは、みずからの人生への重苦しい嘆きから笑いへの転換だったのです。
それはまた、悲惨さを忌避してさっさと死んでしまうより、どこかからからと「平気」(正岡子規)で生きていることであったり、老年の枯れた「遊び心」(高浜虚子)であったりという形で、後の世の俳人たちにも受け継がれていったように思います。
11月5日にうお座から数えて「思想信条」を意味する9番目のさそり座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、他ならぬ自分自身を肯定するための思想をどこまでも無心に追求しきたいところです。
寺山修司の言葉
例えば日本のパンクシーンはそのノイジーな音だけでなく、特異な言語感覚によっても特徴づけられますが、1950年代から80年代にかけてそうした日本のアンダーグラウンドに大きな影響を与え続けた寺山修司の言葉を、ここで三つほど引用しておきたいと思います。
僕は恥ずかしき吃り(どもり)である。だが、吃るからこそ、自分の言葉を、自分の口の中で噛みしめることができるのだ。(『書を捨てよ、町へ出よう』)
歴史を変えてゆくのは、革命的実践者たちの側ではなく、むしろ悔しさに唇をかんでいる行為者たちの側にある。(『黄金時代』)
ダンス教室のその暗闇に老いて踊る母をおもへば 堕落とは何?(『テーブルの上の荒野』)
彼の言葉には、いつも隠れた疑問符がついてまわっているように感じますが、それは与えられた幸福で人生への疑問を塗りつぶすような真似を、彼がついぞしなかったからでしょう。今週のうお座もまた、そうした彼の探求に続いていくべし。
うお座の今週のキーワード
一個の巨大な疑問符と化す