うお座
人間をひょいと超え
詩人としての理想
今週のうお座は、コウルリッジの「小夜啼鳥(ナイチンゲール)」のメタファーのごとし。あるいは、人間とは異なる次元に片足を突っ込んでいこうとするような星回り。
ギリシャ神話で義理の兄にあたる王テレウスに凌辱された上、そのことを誰にも話さないよう舌を切られた娘ピロメーラーが逃げるためにナイチンゲールに変身したという暴力的悲劇から、ナイチンゲールは西洋では長らくその鳴き声は悲哀と憂鬱を象徴するものとされてきました。
ところが、イギリスロマン派詩人の先駆となったコウルリッジは『小夜啼鳥』という詩において、その伝統を見事に転覆させ、この鳥を「歓喜(Joy)」の象徴として言及しました。
ほら聞いてごらん、小夜啼鳥が歌い出したぞ、
「調べ妙にしていとも憂わしげな」鳥が。
憂わしげな鳥だって?根も葉もないことを!
自然界に憂わしげなものなど何もない。
鳥は波瀾に満ちた人間の複雑な恋愛感情によってもたらされる憂鬱とは無縁であり、彼らはただ突き抜けた明るさでもって恍惚と囀るのみ。「男」の立場からも「女」の立場からも自由な、異なる次元に立つ存在の不思議さ。コウルリッジはそこにこそ、詩人としての自身の理想を重ねていたのではないでしょうか。
5月4日にうお座から数えて「忘我」を意味する12番目のみずがめ座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、そうした突き抜け感がどこかしらに出てくるかも知れません。
痙攣としての美
現代におけるロマン主義を体現した作家であったアンドレ・ブルトンには、『ナジャ』という自伝小説がありました。それは文字通り、自身のことを「ナジャ」と名乗った女との偶然の出会いから始まった交際の記録を、自動記述で思いのままに書き綴った作品。
「ほら、あそこのあの窓ね?今はほかの窓と同じように暗いでしょ。でもよく見てて。あと一分もすると明かりがついて、赤くなるわ」一分が過ぎた。窓に明かりがついた。なるほど、赤いカーテンがかかっていた。
そんなナジャにブルトンは戸惑いつつも、急速にのめりこんでいく。彼は質問する。「あなたは一体何者ですか?」。すると彼女は答える。「あたしは、さまよえる魂なのよ」。
彼女は夢遊病者のようでもあり、また現実世界を無限的神話世界に変容させる魔女のようでもあり、彼以外の男たちにとっては娼婦であったのに、ブルトンにとってはナジャは肉体を欠いた中性的=霊的存在であり続けました。
結果的に彼らの関係は破綻を迎えるのですが、『ナジャ』の末尾に書かれた「美とは痙攣的なものだろう、さもなくば存在しないだろう」という一文を鑑みるに、それは必然でもあったのでしょう。
今週のうお座もまた、コウルリッジやブルトンよろしく、自分なりの忘我の境地を切り開いていきたいところです。
今週のキーワード
カタルシス(感情的浄化作用)