うお座
無学な聖人たれ
叡智は無学に近い
今週のうお座は、中江藤樹にとっての「学者」のごとし。あるいは、「叡智」の訪れを招いていこうとするような星回り。
日本独自の無教会主義を唱えたキリスト教思想家・内村鑑三の『代表的日本人』は、日本が近代化を推し進めていた明治時代にまず英語で出版され、そこでは西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の5人の生涯が取り上げられるのですが、中でも同じ教育者として内村が深く敬愛したのが江戸時代初期の儒学者・中江藤樹でした。
“学者”とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない。学識は学才であって、生まれつきその才能をもつ人が、学者になることは困難ではない。しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。学識があるだけではただの人である。無学の人でも徳を具えた人は、ただの人ではない。学識はないが学者である。
ここで言う「学識」は、専門的知識あるいは高度な情報と言い換えられますが、それはいつも何かについての間接的な情報であって、いくらそれらをたくさん持っていたとしても、その対象を直接知ってたことにはなりません。
中江藤樹は情報ないし知識を得ることと、叡智に出会うことはまったく違うことなのだと強調している訳ですが、後者の核は端的に言えば「与えられるもの、訪れるもの」としての「徳」であり、その根源こそ内村が取り上げた5人のなかで脈々と息づいてきた、彼らを越えた存在としての「天」でした。
その意味で、12日にうお座から数えて「精神の大元」を意味する12番目のみずがめ座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、無学者の精神に立ち返って叡智を仰ぐべし。
願望ではなく自覚を
そう在れるのは、
そう在りたいではなく、
そう在ると思う者。
願望はどこまでも願望でしかなく、
魂の自覚とは別の回路。
(橋龍吾『自信』)
「まなぶ(学ぶ)」という言葉は「まねる(真似る)」と同じ語源で、「まねぶ」とも言われていたように、自分が真似したいやり方を「まねぶ」ことから始めるのは学びの基本です。
ただ、これは逆に言えば、どれだけ知識が頭に入ろうと、本質的に自分が「そう在る」と思えないような状態からは、何ひとつ学ぶことはできないということでもあります。
先に取りあげた中江藤樹は、11歳の時に孔子の『大学』の「天子から庶子にいたるまで、人の第一の目的とすべきは生活を正すことにある」という一節を読んで、自分は真の徳をそなえた人間=「聖人」になるのだと声をあげて喜んだと言います。
今週のうお座も、これはと思った対象と向き合う時には、「~になりたい」といった願望ではなく「~となるのだ」という「自覚」を合言葉に、まねぶことを心がけていきたいところです。
今週のキーワード
『代表的日本人』