うお座
神秘を取りはらう
キリスト的自己欺瞞
今週のうお座は、山から降りて街中へ居を移す仙人のごとし。すなわち、おのれを神秘化したりごまかしたりするのでなく、日常の中に隠れている「新たな感情」を発見し、名前を付けていくこと。
ニーチェの『喜ばしき知恵』(村井則夫訳)の中に「世捨て人」と題された次のような章がある。
「隠遁者とは何をしている者だろうか?彼はより高い世界を希求し、あらゆる肯定の人間よりもはるか彼方へ、より遠くへ、より高く飛翔しようとする。—彼は、飛翔の邪魔になる多くのものを放棄するが、その中には、彼にとってかならずしも無価値でもないし、不快でもないものが多数含まれている。彼はこれらを、高みへの欲望のために犠牲にするのだ。この犠牲、この放棄こそ、人の目に映る彼のすべてである。そのために世の人は、彼に世捨て人という名称を与え、彼の方でもそうした装いでわれわれの前に現われる。頭巾を深々と被り、獣皮のぼろをまとった精神として。こうした身なりが及ぼす効果に、彼はおそらくご満悦である。」
ここでなされている指摘は、聖なる救世主ないし悲劇の犠牲者になりたがろうとする、うお座タイプの人へまっすぐに向けられたものと言えるだろう。
つまり、誰かを救ったり、犠牲になったりといった神秘的な成分たっぷりのアイデンティティーを手にするために、そうしたタイプの人もまた「こうでありたい自分」を欲望しているのだ、と。
今週は、自己欺瞞の作りだしたまぼろしが吹き消された後、そこに残った素朴な感情をきちんと観察し、そっと手を伸ばしていくことができるかが問われてきそうです。
精神の離乳期
引用元ではさらに次のような文が続く。
「彼は、われわれを超えて飛び立とうとする自分の欲望や、誇りや狙いを、われわれの目から隠そうとする。—そうだ!彼はわれわれが考えるよりも賢明で、われわれに対して礼を尽くしているのだ――この肯定の人は! 彼は世を捨てながらも、やはりわれわれの同類なのだから。」
平凡で味気なくありふれた現実に生きる人間は、つまらなくて無価値で何ら肯定できるものがないのだろうか。
おのれを神秘化せずにはいられない人間が、小綺麗で型にはまった小市民的な装いに身を包んだら、そこにはニヒリズムしかないのだろうか。
うお座タイプの人というのは、大抵がどろどろの愛情の血の泥沼の中で、羽ばたかせるべき自分の翼をぬらしてしまっていることに気付くべきだ。
今週は、ある種の精神の離乳期間とも言えるかも知れない。
今週のキーワード
世捨て人も市井人の同類