
てんびん座
「汝自身」とは?

正体不明な存在と肩を組むということ
今週のてんびん座は、「ゆやけ見る見えざるものと肩を組み」(市川勇人)という句のごとし。あるいは、あいまいな共在を受け入れるだけの余地が、すっと開けていくような星回り。
「ゆやけ(夕焼け)」は、日本文化において単なる自然現象を超えて、しばしばあの世との通路、彼岸との接続点のような象徴的な意味合いを担ってきました。したがって夕焼けのながめもまた、現世と常世とをつなぐ一種の儀礼的まなざしであり、この句の「ゆやけ」もまたそうした宗教的な沈黙の時間を背景にしています。
では、「見えざるもの」とは一体何でしょうか?具体的な死者、たまたまそこにいた幽霊、ないし神仏、過去の自分、未来の自分などが、様々に解釈することはできますが、ここで重要なのは「いないが、いるように感じられる存在」であるという点でしょう。
日本人が歴史的に培ってきた宗教性には、「存在しないもの」を存在しているかのように感じる「あわい」の精神がありますが、これは善と悪、神と悪魔、現実と超越とを峻別する西洋の神学的二元論とは異なり、霊的存在とのあいまいな共存を受け入れる柔軟さに支えられた日本独自の世界観と言えるでしょう。
また、ここで「握手する」のでなく「肩を組む」という動作が選ばれているのも、非常に示唆的です。後者は視線を共有する行為でもあり、かつ正面から向き合う握手よりも、ずっと身体的に相互侵犯的で共同体感覚に直結しているはず。
7月7日にてんびん座から数えて「ものの見方」を意味する9番目のふたご座に「まさかの変化」をもたらす天王星が移っていく今週のあなたもまた、日本的信仰の静かな発露を、突拍子もないところで実感していくことができるかも知れません。
ソクラテスとソフィストたちの違い
一般にソフィストは単なる詭弁家と誤解されがちですが、実際には各方面の教養や最新の学識をもち、人の世の道にも通じた当世一流の知識人たちでした。
ただし、「世界や生を、人間という間尺で解釈する立場」に立って、「人間の関心や生存を中心にして、非知・無関心のこの自然や世界を切断する」点で、ソクラテスとは立場が異なっていたのであり、まさにその点においてソクラテスは哲学の祖となったわけです。
つまり、この宇宙の人知や道徳を超絶した中立性(無関心)や、その根本的な分からなさ(非知)を半ば無自覚に認めていなかったことにこそ、ソクラテスは頑として対抗し、「汝自身を知れ」を自身の真理探究の出発点としたのです。例えば古東哲明は、その意味するところについて以下のように述べています。
意識主体(自我、理知的主観)を可能にし裏づけながら、そんな主体の専制を同時に脅かすような両義性をもつのが、「汝自身」。反省し意図し意識するぼくたちの顕現的な自己性(理知性)というものが、いつもすでにソレに先を越されており、しかもソレに支えられているのが、汝自身(自己)というもの。だから原理的に意識主体(顕現的自己)には収まりがつかない自己自身。(『現代思想としてのギリシャ哲学』)
ソクラテスの問答術(哲学対話)というのは、そんな「非知で、意識下の、不断に人間的理知や意志や対象化の作用から逃れていく」ようなリアリティへと沈黙ととともに連れ出していくための術だったのです。
今週のてんびん座の人たちもまた、意識を呑み込む無意識や生きられた身体性の位相へと、ふーっと姿勢を向け変えていくことがテーマとなっていくでしょう。
てんびん座の今週のキーワード
我には収まりがつかない自己





