
てんびん座
うっかり風に吹かれゆく

予測不可能で自由な運動を身体に命じる何かを求めて
今週のてんびん座は、スポーツ(身体遊戯)が与える感動の不思議のごとし。あるいは、自分が機械的な反応を繰り返す‟装置”になりきれないという証拠を、身をもって再確認していこうとするような星回り。
たとえば、生涯をかけて「いのちとは何か」を問い続けたフランスの哲学者アンリ・ベルクソンは、1912 年に行われた「魂と体」という講演において、「われわれの1人ひとりは1つの身体である」と認めつつ、「私」とはほんらい「空間においても時間においても身体を超えるように見える」ものであると述べています。
「身体である」ところの「私」が「身体を超えるように見える」とは、一体どういうことなのでしょうか。ベルクソンは、それに答えるように、続けて次のように語っています。
身体は時間においては現在の瞬間に閉じ込められ、空間においては占める場所に限定され、そして自動機械として行動し外的な影響に機械的に反応するわけだが、その身体のそばで、空間において身体よりずっと遠くへひろがり、時間を横断して持続する何か、もはや自動的でも予測されているのでもなく、予測不可能で自由な運動を身体に対して要求し命じる何ものかを、我々は捉えている。あらゆる面で身体をはみ出し、新たに自分自身を創造することによって行為を創造するこの何かとは、「自我」であり、「魂」であり、精神である。精神とは、その力が含むより以上(plus que)をそれ自身から引き出し、その力が受け取るより以上(plus que)を返し、それが持つ以上(plus que)を与える。(『精神のエネルギー (新訳ベルクソン全集)』)
そう、スポーツ(身体遊戯)とは、まばたきする間に消えてしまうような、生命における特別な現れ、あるいは人生の特別な瞬間のイメージを私たちに与えてくれるがゆえに感動的なのであり、それは私たちひとりひとりに「自分は単なる自動機械ではない」ということを思い出させてくれるものであったはず。
その意味で、6月17日にてんびん座から数えて「潜在的な力」を意味する12番目のおとめ座に火星が移っていく今週のあなたもまた、「より以上」を引き出すものとして身体やその遊戯の可能性を、少しでも強く、深く実感していくことがテーマとなっていくでしょう。
鉛玉から穴だらけの一反木綿へ
たとえば、「うっかり」という擬態語は、突如としてあらぬ方向からやってきては、いつの間にか去っていくという意味では、抜きぬけていく一陣の風と似たようなところがあるように思います。
風もまた四方八方から吹いてくるし、強くなってはなぎ、すぐに方向を変え、予測や予断を許しませんが、古代ギリシア語ではそんな風のことを「プネウマ」と呼んでいました。普遍的な実体としての「霊」のことです。
そして西洋哲学では、そんな風や霊がよどんで情念として沈殿した状態が、個別的な魂(プシュケー)であり、自分が自分であることの中核なのだと考えてきました。
そこでは、鉛玉のように確固とした自分を持つことだとか、どんな風にもびくともしない堅牢な教会のごとき業績を残すことが、崩れにくい「優れた個人」の見本とされてきたわけですが、そうした近代的なモデルの正しさor適切さは、現代の日本社会でもとうに崩れつつあるのではないでしょうか。
今週のてんびん座は、もっとゆらめいたり、しなったり、情勢に応じてどこかへ流れていってしまうような「プネウマ」をよく通す、「穴だらけの個」として自身を捉えてみるといいかも知れません。
てんびん座の今週のキーワード
「はごろもフーズ天空支店」





