
てんびん座
余計な執着をひっぺがすぞい

流離を想うということ
今週のてんびん座は、「紫陽花や流離にとほき靴の艶」(小川軽舟)という句のごとし。あるいは、どんなにささやかな形であれ「精神の漂泊」を遂げていこうとするような星回り。
作者45歳の頃の句で、当時サラリーマンを続けながら俳句結社の主宰を引き受け、俳誌の編集長としての業務もこなす忙しい日々を送っていたのだそう。ただ、おそらく、本人の胸の内には、何かと窮屈な会社勤めをやめてしまいたいという気持ちはずっと渦巻いていたのでしょう。
「流離」という語から真っ先に想起されるのは、松尾芭蕉の旅の精神です。彼は『おくのほそ道』の冒頭で「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」と月日の流れを旅人に喩えていたり、また最期の句も「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」というもので、まさに「流離(さすらい)」を貫いた一生でした。
芭蕉にとって旅とは、単なる移動ではなくて、自己と世界とを一致させる詩的行為であり、「定住」に対する「漂泊」、つまり生を賭して世界と新たな関係を結び直そうとする精神の在り様のことで、作者もまた文芸に携わる者の1人として当然そこに憧れがあったはず。
しかし、「靴の艶」という措辞は定住者の、都会生活者のそれです。旅塵にまみれることのない、手入れの行き届いた足元の光沢は、逆説的に「流離」とは無縁な生の証しであり、日々の職責や家庭という「定め」に根ざした現代人の立ち位置を示している。
だからこそ、「紫陽花(あじさい)や」という呼びかけには、季節への呼応とともに、そうした矛盾をひとつの美として昇華しようとする詩情が宿ってくる。色がにじみやすく「うつろい」や「不定」を象徴する紫陽花の花が、自身の「流離にとほき」現実と呼応し、そこに芭蕉のように実際に旅に出られない人間の、せめてもの慰めを見出しているのです。
6月11日に「自己肯定感」を司る木星がてんびん座から数えて「ロールモデル」を意味する10番目のかに座に移っていく今週のあなたもまた、作者がそうしたように、「憧れの対象」への自分なりのオマージュを捧げていくことがテーマとなっていくでしょう。
習得すべき技術としての「素直さ」
一般的に「素直である」とは、若者らしい素朴さを言い、幼く従順であることとセットであるように思われますが、辞書で調べると、他にも「技芸などに癖がない」という意味が出てきます。
これは私たちが年齢やキャリアを重ねていくと、経験値が増えていくと同時に、どうしても‟癖”がついてきて、「その人なりの味が出てくる」と言えば耳障りはいいですが、当初の柔軟性が失われるだけでなく、仕事や職業、特定の役割そのものに執着が湧いてくることの裏返しなのだとも言えます。
その意味で、「素直さ」とは子ども時代よりも大人になってから改めて重要性が増してくる特性であり、ある種の“技術”として習得し習熟していくべきものなのではないでしょうか。
いま、何かに夢中になれているか、それによって自分は幸せか。そういうことに意識的でいられれば、自然と特定の「職業」や「役割」にしがみつくこともなくなり、拒絶するにしてもケレン味はなくなっていくはず。こうした素直さもまた「精神の漂泊」のひとつの形なのです。
今週のてんびん座は、そもそも自分を幸せにすることができるのであれば、どんな仕事や職業であってもいいのだという柔軟性を改めて取り戻していくことがテーマとなっていくでしょう。
てんびん座の今週のキーワード
余計なものをふり落としていく技術





