
てんびん座
迷路の中心を求めて

より困難な忘我へ
今週のてんびん座は、雑踏の中での「コンテンプラチオ」のごとし。あるいは、<勤勉か、怠惰か>という二項対立的な図式に占有された社会から「脱線」していこうとする星回り。
キリスト教には精神生活の理想として挙げられる「コンテンプラチオ」という言葉があります。「コンテンプラチオ」とは、ギリシア語の「テオリアtheoria(見ること、観想)」に由来する言葉で、通常は修道僧が人里離れた荒野や修道院で行っている内観としての修行などを指すのですが、20世紀の哲学者ピーパーは”現実のなかで目を開くこと”としてより平易に定義し直しています。
ピーパーによれば、中世最大の神学者トマス・アクィナスは「愛のあるところ、そこに眼がある」と言ったそうですが、興味深いことに、アクィナスはこの「愛」の対立概念として「怠惰(心をなんら揺り動かされない状態=無関心)」を挙げていました。
中世において「怠惰」というのは、せっせと日々の仕事にいそしむ「勤勉」と対立するものではなく、むしろ十戒の「あなたがたは安息日を聖なるものにしなさい」という戒律に背くものであり、つまりは「神的なものに目を見開くこと」に逆行する行為と見なされたのです。先のピーパーは、現代社会の特質に「不安」があることを上げつつ、この怠惰と対極にあるものとして「余暇」について、次のようにも述べています。
ある鋭い観察者によると、この「目に見えぬ不安」こそ現代の組織化された労働管理社会の特質を示すものであって、この社会に閉じこめられた人間にとっての逃げ口はないのです。つまり、前に進めば「労働」で行きどまり、後に退いても「失職」で行きづまり、というわけです。これに対して、「余暇」においては次のことが起こります。一方では「狭い意味で人間的なもの」への執着をくりかえし断ち切ることによって真実に人間的なものが守られ、救いだされます。そして、このこと、つまり真実に人間的なものの実現は、人間が自分の力をふりしぼることによってではなく、いわば一種の「忘我」の状態において起こるものです。いうまでもないことですが、ぎりぎりのところまで力をふりしぼって活動することよりも、「忘我」の方が「より困難」だといえます。なぜなら、それは思いのままにはならないからです。(『余暇と祝祭』)
5月4日にてんびん座から数えて「賜物」を意味する11番目のしし座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、力をふりしぼって獲得していくような「狭い意味で人間的なもの」への執着を思い切って断ち切っていくべし。
夢遊病者のごとく
池内紀の『錬金術師通り』という短編集には、ウィーンやプラハなどの東欧の都市の物語が五編おさめられており、それはカフカのあとをたずねてどこどこに行きましたなどという野暮な内容ではなく、すべてを幻想にあふれた小説仕立てにすることで、かえって東欧の都市の雰囲気を濃厚に感じられるように作られています。
たとえば、カフカが少年時代を過ごしたプラハの旧ユダヤ人地区ゲットーを訪れる話では、地下牢とカフカ自身が形容していた「細い通りが迷路のように入り組んでいる」場所に出くわした<私>は、カフカの次なような言葉を思い出します。
私たちの内部には、あいかわらず暗い場末が生きています。いわくありげな通路が、盲いた窓が、不潔な中庭が、騒々しい居酒屋が、陰にこもった宿が――(…)陰気な壁のような建物がつづく。どの窓も小さい。部屋はきっと昼間でも暗室のように暗いのだろう
そうして「私」は言葉通りの細い通りを歩きながら、いつの間にかウィーン郊外の魔法じみた暗さへと潜り込み、その土地にゆかりのある作家の精神に導かれていくのですが、「コンテンプラチオ」の実際というのも、案外こうしたものなのではないでしょうか。
今週のてんびん座もまた、目的地への最短距離をいくような「移動」ではなく、心の迷路の中心をたずねていくような歩く「瞑想」を試みてみるといいでしょう。
てんびん座の週のキーワード
どこか魔法じみた暗さに溶け込む





