てんびん座
永遠の原始人たれ
現代人は愛しえるか?
今週のてんびん座は、「まず日輪と共に始めよ」というロレンスの言葉のごとし。あるいは、「愛する」という虚しい言葉の代わりとなるような感覚をつかんでいこうとするような星回り。
人間はしょせん「断片的な存在」であることから免れえず、それゆえに、私たちが分断を前にして可能なことはただ「嫉妬深い、恨みがましい、妄執の鬼と化するに終る」ことだけなのだと述べたのは、近代文明が人間生活にもたらす悪影響を一貫して主題として扱ってきた作家D・H・ロレンスであり、その最晩年の論考である『黙示録論』でした。
とは言え、現代人はいくら「断片的」であるとそしられようとも、もはや個人主義を手放そうとはしないでしょう。一方で、いつの世にあっても人間は人間である限り他者や何らかの共同体との結びつきを求め、その成果として近代文明を築くにいたった訳ですが、ロレンスはそうした近代社会的な精神の在り様を厳しく批判しています。
キリスト教と私たちの理想とする文明とは、長く続く逃避の一形態だった。こうした宗教と文明が際限なき虚偽と貧困を、物質の欠乏ではなくそれよりずっと危険な生命力の欠乏、すなわち今日わたしたちが経験している貧困を生んできた。生命を欠くよりパンを欠くほうがましだ。長く逃避を続け、そうして得られた唯一の成果が機械とは!
では、私たちはどうすればいいのでしょうか。その点については、ロレンスの『黙示録論』を翻訳し、自分に思想と呼べるものがあるとするならそれは本書によって形成されたとさえ述べた福田恆在は、「ロレンスの黙示録論について」というエッセイの中で、次のように述べています。
ぼくたちは―純粋なる個人というものがありえぬ以上、たんなる断片にすぎぬ集団的自我というものは―直接たがいにたがいを愛しえない。なぜなら愛はそのまえに自律性を前提とする。が、断片に自律性はない。ぼくたちは愛するためにはなんらかの方法によって自律性を獲得せねばならぬ。近代は個人それ自体のうちにそれを求め、そして失敗した。自律性はうちに求めるべきではない。個人の外部に―宇宙の有機性そのもののうちに求められなければならぬ。
1月7日にてんびん座から数えて「他者との関わり」を意味する7番目のおひつじ座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、有機的宇宙の一部としてあるべく、できるだけ頭の声ではなく生き物としての本能に従ってみるといいでしょう。
魂の原始性を呼び覚ます
ここで思い出されるのは、思想家の井筒俊彦が『ロシア的人間』の中で、かの地に棲む人々を称して用いた「永遠の原始人」という言葉です。
行けども行けども際涯を見ぬ南スラヴの草原にウラルおろしが吹きすさんでいるように、ロシア人の魂の中には常に原初の情熱の嵐が吹きすさぶ。大自然のエレメンタールな働きが矛盾に満ちているように、ロシア人の胸には、互いに矛盾する無数の極限的思想や、無数の限界的感情が渦巻いている。知性を誇りとする近代の西欧的文化人はその前に立って茫然自失してしまう。(…)この恐るべき矛盾錯綜はディオニュソス的性格のものである。だから自分で本当にディオニュソスの不気味な叫び声を心の耳に聴いたことのある人だけにわかるのである。
だからロシア人というのはあれだけ酒を飲むのかも知れませんね。しかし、おそらくこうしたロシア的な精神世界というのは、現代日本人にとってことさら「凄まじ」いものとして、ほとんど得体の知れない怪物のように映るかも知れません。それでも、有機的宇宙の一部であるという感覚というのは、得てして耳触りのいいものではなく、こうした得体のしれなさや不気味さを宿しているのではないでしょうか。
今週のてんびん座にとって、頭で抑えこむことが不可能なものとしての自然現象や生理現象は、いつも以上に身近なものと感じられてくるはず。願わくば、それらを圧殺することなく、魂の深いとろこで静かに受け止めていきたいところです。
てんびん座の今週のキーワード
ディオニュソスの不気味な叫び声を心の耳で聴いていくこと