てんびん座
偶然性の詩学
空気の写生
今週のてんびん座は、『秋晴の空気を写生せよといふ』(沢木欣一)という句のごとし。あるいは、「なんでわざわざそんな地味で、無意味に思えるようなものに注目したのだろう?」と思われるくらいの風景を黙って指示していくような星回り。
自注に「空気が写生できなければ駄目だと棟方さんが語った」とあり、この棟方さんとは版画家の棟方志功のこと。特別難しいことは言っていませんが、実際にやってみせようとするとなかなか奥が深いことに気付かされます。
俳句も詩である以上は心のままに思いの丈を詠うのが出発点ですが、俳句ほど短い形式になってくると、その主観が露骨に出てきてしまうとそもそも詩にならないんです。
だからこそ、明治時代に俳句を再興させた正岡子規やその弟子たちは「客観写生」ということを打ち出して、頭の中のイメージや美意識をなぞるのではなく、現実の妙な生々しさを作品に宿らせることを第一とすることで、俳句を伝統的な自然観や思想の拘束からの解放区としていきました。
さて、「秋晴の空気」というのも一つの明確な事象である以上、たとえ空気そのものは目に見えないものであったとしても、作品にしていくとすれば、その自分なりの把握を他人にも見えるように写生して、それをそのまま出していかなければなりません。
作者の場合、おそらく言われたことがいま一つピンと来ていなかったのでしょう。真意をつかむべく、どこか考え込んでいるような「空気」を醸しだしていることを感じとって、それをそのまま出すことが作品となっていったわけです。
9月22日に自分自身の星座であるてんびん座へと太陽が移っていく(秋分)ところから始まる今週のあなたもまた、普通ならまず人が取り上げないような現実=自分事をひょいっと拾いあげてみるといいでしょう。
ルヴェルディの見解
アンドレ・ブルトンの『シュルリアリスム宣言』の中に次のような一節があります。
イメージは精神の純粋な創造物である。それは比較することからは生まれず、多かれ少なかれ離れた二つの実在を接近させることから生まれる。近づけられた二つの実在の関係がかけ離れ、適切であればあるほど、そのイメージはいっそう強烈になり―いっそう感動と詩的現実性をおびるだろう……
じつはこの箇所自体はシュルレアリストからその先駆と見なされていた詩人ピエール・ルヴェルディのもので、ブルトンは彼の見解を否定して無意識的な「自動記述」を推奨する自説を唱えるのですが、ひとつの詩学としてはルヴェルディの見解の方がよっぽど面白く感じられます。
それは言わば「偶然性(意外性)の詩学」とも呼ぶべきもので、ルヴェルディは人間の思考や行動というものがいかに特定のステレオタイプやパターナリズムに陥りやすいものなのかということを、身に沁みて分かっていたのでしょう。
そして、詩や文芸というのは日常の言動や人間関係のありようを凝縮したものですから、「多かれ少なかれ離れた二つの実在」を「かけ離れ、適切であ」るような仕方で「接近させること」というのは、やってみると想像以上に難しいのですが、それでも意識して狙ってやっていかなければ、偶然うまくいくことはあっても、技(アート)として向上していくことはないのではないでしょうか。
その意味で、今週のてんびん座もまた、「意味のある偶然をあえて狙って仕掛けていく」ということを、できるだけ身をもって実践していくことがテーマとなっていきそうです。
てんびん座の今週のキーワード
未視感の誘発