てんびん座
脱俗を経ての俗ということ
一周まわった凄み
今週のてんびん座は、『去年より又さびしひぞ秋の暮』(与謝蕪村)という句のごとし。あるいは、図と地が反転し、これまで潜んでいた地の部分が浮上していくような星回り。
前書きには「老懐」とあり、還暦の歳もまもなく過ぎ去ろうとする秋の夕暮れに、いつも以上にさびしさや侘しさの感慨を催すことがあって、その感慨そのままに詠まれたのでしょう。
秋の夕暮れがさびしいだなんてことは、もう飽きるほどに詠まれてきたことは作者ももちろん分かっている訳ですが、それにも関わらず、秋の暮れをさびしいぞなどと言ってみせるのは大胆不敵というか、破れかぶれというか、なんだか一周まわった凄みのようなものが感じられてきます。
同じ季節の寂しさでも、やはり年をとってみずからの老いを痛感するようになってくると、それがいよいよ尋常ではないところまで深まってくるということを、おそらく作者は身をもって発見したのだと思います。
作者の心の師である芭蕉の作に「この秋は何で年寄る雲に鳥」というよく知られた句がありますが、芭蕉句の象徴を用いた洗練された句法に比べると、やはり作者の地の部分である山深い信州出身の土臭さのようなものが濃厚に漂っているのがわかるはず。
9月11日にてんびん座から数えて「言語化」を意味する3番目のいて座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、これまであまり言葉にすることのなかった地の声のようなものを言語化していくにはもってこいのタイミングと言えるかもしれません。
「いき」な自己肯定
さまざまな経験を積んで成熟した人間のことを「酸いも甘いも嚙み分けた」と表現することがありますが、これは意外と古い言い回しで、「酸い」を現代の基準でレモンのような鮮烈な酸っぱさだと捉えてしまうと、途端によく分からない話になるのです。
そもそも日本の伝統的な酸味というのは、例えば醸造酢のような「まろみ」に近いくらい甘味も含んだものであり、だからこそ「嚙み分ける」必要があるし、それには両者の微妙な違いを区別するための“基準”を知っていなければならないのです。
哲学者の九鬼周造は『いきの構造』の中で、甘味に対して渋味を対置させた上で、その中間にあるものが、派手と地味の中間にあるものと対応しているのだと論じました。つまり、甘味というのは「俗」であり、人目を気にし過ぎており、その対極である渋味の「脱俗」すなわち一切の人目がそぎ落とされた隠遁者的な精神的円熟の境地を“基準”とすることで、「いき」な甘さ=「酸い」を感じ取っていくことができるのだと考えた訳です。
それと同様、円熟味のある自己否定を基準にしつつ、ありのままの自分への甘い自己受容とは異なる、「いき」な自己肯定をいかに繰り出していけるかが、今週のてんびん座にとって大切なテーマとなっていくでしょう。
てんびん座の今週のキーワード
甘味と渋味の中間に立つ