てんびん座
しかと目を見開く
生きているうちに
今週のてんびん座は、「冬眠すわれら千の眼球売り払い」(中谷寛章)という句のごとし。あるいは、いつか見るだろう走馬燈のシュミレーションをしていくような星回り。
31歳の冬に病死した作者の遺作。「眼球」は「め」と読ませる。まなざしを外すくらいではダメなのだ。作者にとって自身が迎えようとしている“最期”とは、物質としての目玉まで綺麗さっぱり売り払って、もうこれで自分は二度と何かを見ることも、目覚めることもないのだと、覚悟を決めた「冬眠」だったのでしょう。
そうすると、ここでいう「われら」とは、具体的な誰かやグループなどを指すのではなく、過去に「われ」がその思いや希望を共有したと信じる幾らかの人びと、そして未来にその後に続くであろう未知の人びとの総体であるはず。とはいえ、それも煎じ詰めればただ独りの「われ」であり、どこまで行っても「われ」のなかの「われら」に他ならないのです。
人間は決してただ一人だけで生きている訳ではないけれど、死んでいくときは必ず自分ひとりで死んでいく。生まれてから死ぬまでに関わった人とのつながりや、そこで縦横に紡がれたストーリーや、浮かび上がった図柄や模様とともに。
その意味で、18日にてんびん座から数えて「ひとつの到達点」を意味する10番目のかに座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、「もうこれで死んでも構わない」と言えるためには、一体自分はどんなストーリーや図柄、模様を両のまなこに収めたいのか、思いを巡らせてみるといいでしょう。
よく生きるために
生きること――それは、死に絶えようとする何ものかを、わが身から絶えず追放することを意味する。生きること――それは、わが身の中の、またわが身に限らず、脆弱で古くなった一切に対して、容赦なく苛酷であることである。
生きるとはしたがって――死に逝く者、衰弱した者、歳を重ねた者への畏敬の念をもたないことではないだろうか?常に殺害者であるということではないか。――しかしながら、老いたるモーゼは言ったものだ。「汝殺すなかれ!」と。(『喜ばしき知恵』、村井則夫訳)
「生きる」をめぐるニーチェの考察を掲句にも援用するなら、別れの儀式とはこころの中の「死に逝く者」や「衰弱した者」、そして「歳を重ねた者」を殺すことなく天上へ、あるいは草葉の陰へと押しやって、それをしかと目を開いて見送っていくことに他ならないのではないでしょうか。
その意味で今週のてんびん座は、自分の中でいま死につつあるものと、それを超えて生きようとするものとの葛藤を通して、腑分けと昇華のプロセスを進めていくことがテーマとなっているのだとも言えるのかも知れません。
てんびん座の今週のキーワード
汝殺すなかれ!