てんびん座
社会と向き合うということ
内なる二人の会話劇
今週のてんびん座は、サリンジャーの『フラニーとズーイ』という小説のごとし。あるいは、自己満足で終わるのではなく、きちんと「社会」を相手にして戦っていくような星回り。
演劇少女の美しい妹・フラニーと5歳年上で俳優の兄・ズーイ。アメリカの名門大学に通う兄妹を描いたこの青春小説は、その年頃特有の自意識を抱えた2人の悩みや会話に満ちている。例えばこう。
「そしてまた私は喝采を浴びるのが好きで、人々に褒めちぎられるのが好きだからって、それでいいってことにはならないのよ。そういうのが、恥ずかしい。そういうのが耐えられない。」
妙な見栄を張りたがったり、うんちくを語ってドヤ顔をきめている同級生に嫌気を感じつつも、それが同族嫌悪であることにも気付いているフラニーがこうして自分のエゴにうんざりしてみせたかと思えば、そんな妹に対し、ズーイは次のように語りかけるのです。
「しかしね、何がエゴであって何がエゴでないか、それを決めるなんて、まったくの話、キリストその人でもなきゃできないことなんだよ。なあ、ここは神の宇宙であって、君の宇宙じゃないんだよ。そして、何がエゴで何がエゴでないかを最終的に決めるのは、神様なんだよ」
「君に今できるただひとつのことは、唯一の宗教的行為は、演技をすることだ。もし君がそう望むなら、神のために演技をすることだ。もし君がそう望むなら、神の俳優になることだ。それより美しいことがあるだろうか?」
そう、ここは理想通りの動くあなたの宇宙じゃない。だから、たとえ認めがたい自己愛や承認欲求が自分の中にあろうとも、やりたいことや伝えたいことを最大限届くところまでやりきること。
世界の主役じゃなくてもいいじゃない。それでこそやりがいある人生ってものよ。
社会は自己欺瞞の外にある
ニーチェの『喜ばしき知恵』(村井則夫訳)の中に「世捨て人」と題された次のような章があります。
「隠遁者とは何をしている者だろうか?彼はより高い世界を希求し、あらゆる肯定の人間よりもはるか彼方へ、より遠くへ、より高くへ飛翔しようとする。—彼は、飛翔の邪魔になる多くのものを放棄するが、その中には、彼にとって必ずしも無価値でもないし、不快でもないものが多数含まれている。彼はこれらを、高みへの欲望のために犠牲にするのだ。
この犠牲、この放棄こそ、人の目に映る彼のすべてである。そのために世の人は、彼に世捨て人という名称を与え、彼の方でもそうした装いでわれわれの前に現われる。頭巾を深々と被り、獣皮のぼろをまとった精神として。こうした身なりが及ぼす効果に、彼はおそらくご満悦である。」
世を捨て、精神の高みにあるような隠遁者でさえも、「こうでありたい自分」を欲望し、いわば演技しているのだ、というこの鋭い指摘は、今のあなたに生じがちな迷いを払うには十分でしょう。
今週は、自己欺瞞を吹き飛ばしてさえしまえば、そこには素朴な感情や衝動が残るのだということを改めて胸に刻んでいくといいでしょう。
今週のキーワード
自意識は自己欺瞞の母