てんびん座
冬菊のひかり
おのれを研ぎ澄ます
今週のてんびん座は、「冬菊のまとふはおのがひかりのみ」(水原秋櫻子)という句のごとし。あるいは、さびしさが人の心を研ぎ澄ませる。そんなこともあるよな、と気付いていくような星回り。
菊は本来秋の季語ですが、「冬菊」は冬になっても咲きつづける小菊のこと。
初めてこの句を読んだ時、そんな「冬菊」がどこか凛とした力強い意志を「ひかり」として放っているように感じられましたが、作者自身は自解のなかで「秋ならば周囲の花のひかりが菊と相映じて、互いに美しさを加えるのだが、いまはただおのれの光があるだけで」などと述べており、むしろそこに「さびしさ」を感じていたようで意外な心地がしたものです。
ただ、考えてみれば人々は「いつも前向き」で何かと「輝き」「愛され」「成功している」自己像ばかりを求めたがりますが、実際にそうした理想を実現していくことは非常に困難な訳です。
その途上で宙ぶらりんになっている時、きちんと「ああ自分は今さびしいんだな、弱っているんだな」と素直に思えるような人の方がずっと健全だし、魅力的に感じられるのではないでしょうか。
ちょうど今のあなたもまた、清廉でどこかさびしげな「冬菊」に重なるように思います。大輪の花を咲かせる豪華な秋の菊とは違うけれど、そういう時もあったっていいじゃないか。
今週はひとつそんな心持ちで、自分をみつめる視点を研ぎ澄ませていきましょう。
さみしさは<地獄下り>の証し
ルーマニアの宗教学者エリアーデは、ある日の日記にこう書いています。
「私は繰り返される失敗、苦難、憂鬱、絶望が、ことばの具体的で直接的な意味での<地獄下り>を表していることを明晰な意志の努力によって理解し、それらを乗り越えうる者でありたい、と念じている」
この彼の言葉は、そのまま彼の生き様であるがゆえに非常に重く聞こえるのですが、個人的には非常に好きな言葉でもあります。
それは、どこか冬になっても咲き続けてしまった菊のように、高慢になったり、脅えたり、逃げたりしている自分の姿=影を受け入れようとしている人間だけに宿る光のようなものを感じるからかもしれません。
そして、さみしさを感じるということは、自分が暗い穴の底へと降りているという実感に他ならないのであって、それは決して恥ずかしいことでも無駄なことでもないのだと思います。
今週のキーワード
M・エリアーデ『エリアーデ日記―旅と思索と人』